平成13年1月5日(金)~2月25日(日)
大小暦(江戸時代の太陰太陽暦) |
はじめに
ついに、21世紀がやって来ました。はたしてどんな100年になるのでしょう。かつて私たちがイメージしていた輝かしき21世紀、鉄腕アトムの誕生は2003年。もうすぐです。
さて、この展示では、21世紀だとか、2001年だとか、1月1日だとか、そういったもの決める基本的な約束ごとである暦について考えていきたいと思います。
本来、時の流れに区切りはありません。しかし私たちは、日々の生活の都合上、暦を使って時の流れに目盛りをつけ、時間というものを生み出しています。暦は、あるいは時間の地図といっていいかもしれません。
1、暦の世界
では、暦にはどんな種類があるのでしょう。まず太陰暦(たいいんれき)と呼ばれる暦のグループ。これは新月から次の新月までの約29日半をひと月とし、12か月を1年とする暦で、イスラム暦がその代表です。しくみが分かりやすい暦ですが、1年が約354日のため、年始の季節が年々はやまっていく特徴があります。
そこで、太陰太陽暦(たいいんたいようれき)と呼ばれるグループでは、季節とのずれをなくすため、2、3年ごとに閏月(うるうづき)を1か月くわえ、調整をはかります。江戸時代以前の日本の暦は、この太陰太陽暦が使われていました。
太陽暦(たいようれき)と呼ばれるグループは、地球が太陽の周囲をひと回りする時間を一年とする暦で、季節とのずれはありませんが、月の満ち欠けとは一致しません。現在、私たちが使っている暦、グレゴリオ暦はこの太陽暦の一種です。
さて、私たちの周囲に無数のカレンダーがあることから分かるように、現在わたしたちは自由に暦を作ることができます。年ごとに若干の変動がある、たとえば春分の日などは、『理科年表』などを参照することになりますが、前年と比べて暦が大きく変わることはありません。
しかし、昭和20(1945)年の終戦以前は、一枚刷りの略暦(りゃくれき)と呼ばれるもの以外、暦を自由に作ることは許されていませんでした。当時の暦(官暦)には、国家の暦としての「本暦」と、その抄本として一般に向けて作られた「略本暦」がありました。こうした官暦は、日次や七曜(しちよう)、干支(えと)、天体の動きを示す数値等が列記された本表に加え、全国の平均気温や平均湿度など気象情報も表示され、まさに「科学としての暦」とでもいうべきものでした。
こうした官暦は、明治5年以前の太陰太陽暦(旧暦)、いわば「非科学的」要素を多く持った暦へのアンチテーゼとして作られたものでした。暦の中の注記(暦注)に示された、日の吉凶に関する様々な事項を削り落とすことは、近代国家日本にとって重要なことでした。
最初の太陽暦 |
2、時の制度と近代化
明治6年の暦が売り出されて一か月以上たった明治5(1872)年11月9日、突然、それまでの太陰太陽暦を廃し、太陽暦を用いるという旨の詔書が公布されました。即日、明治5年12月3日を明治6年1月1日にするとした達が出され、人々に大きな驚きを与えました。
おそらくほとんどの人々にとって、1年が365日で、閏が4年に1回、それも1日だけという新しい暦のしくみは理解を超えたものであったでしょうし、それ以上に、明治5年12月が3日間だけというのは納得のできないものだったようです。
こうした改暦の断行は一方で、それまでおこなわれてきた年中行事を否定し、旧弊(きゅうへい)として廃止させようとする動きと連なっていました。このことは民衆の不満を買ったらしく、明治6(1873)年に起きた筑前竹槍一揆(ちくぜんたけやりいっき)での要求の中にも、旧暦の復活が含まれていたといわれます。
3、年中行事の混乱
旧弊弾圧(だんあつ)は、天皇を中心とした国家体制の確立を急ぐ政府の祝祭日政策と表裏一体のものでした。暦の始めに記された四方拝(しほうはい)や元始祭(げんしさい)など、宮中起源の祝祭日は、これが天皇の暦であることを印象づけ、新しい国家の方針を明確に示すことに役立ちました。
近年の研究によれば、明治20年代から、初詣(はつもうで)という新しい行事が成立したと考えられるようになりました。もともと元日は家で静かにすごすべき日でしたが、四方拝という宮中行事が祝日となったことに伴い、官公庁や学校で儀式がおこなわれるようになり、しだいに神社へ参拝すべき日になっていきました。まさに改暦をきっかけとして、人々の生活サイクルが大きく変わっていったのです。
さて、旧弊弾圧をくぐりぬけた年中行事は、その日取りにおいて大きく3つの方向に分かれることになります。一つは日取りをそのまま新暦に移しておこなうやり方です。正月行事がその代表的なものです。一方、あくまでも旧暦を使い続けるやり方もあります。例えば東区志賀島のお接待行事は、今も旧暦3月21日におこなわれていますし、仲秋の名月のように月の満ち欠けと密接に関連する行事もこの方法を採っています。
しかし、多くの行事は従来の季節感に合い、しかも新暦上で日取りが決められるやり方が選ばれています。これが月遅れと呼ばれるもので、例えば盆行事のように、本来旧暦7月の行事であるものを、暦の上でひと月遅らせ、新暦8月におこなうというものです。
こうした三つの方法が絡み合いながら、年中行事の日取りはとてもわかりにくいものになってしまいました。
もう一つ混乱しているのが、閏年です。新暦で生活している私たちにとって、閏年は2月が29日ある年であって、(夏季)オリンピックの開催年というイメージが定着しています。ところが民俗行事を見ていると、平年12個あげる供物の餅を、閏年には13個にするという例が数多く見られます。そしてその説明として「月の数だけ」という言葉が聞かれるのです。
これは明らかに旧暦の閏年、つまり年の途中に閏月をおいて、1年を13か月にしていた頃の作法です。新暦が浸透した現在、閏年という言葉だけが受け継がれ、オリンピックの年には餅が13個という、ちょっとわかりにくい現象が起きているのも、そういう理由からなのです。
4、暮らしの中の暦
時は、国家的な時の制度の問題であるだけでなく、私たちのふだんの暮らしの中にもなくてはならないものです。例えばねじ巻き式の柱時計は、家庭の時間の象徴でした。時を知らせるボンボンという音や、毎日あるいは毎週のねじ巻きは、私たちに時刻の感覚、1日、1週の長さを植え付けました。日めくり暦も、毎日の捲るという行為によって、昨日と違う今日を示します。今日が何月何日であるのかを確実に教えてくれる日めくりは明治時代の後半に生まれたものだといいます。
一方で、迷信といわれながらもその日の吉凶を知りたいという人々の欲求に応え、おばけ暦と総称される暦も出まわりました。暦注(れきちゅう)を多く盛り込んだおばけ暦は、取り締まりの目をくぐり抜けながら大量に出まわり、一般家庭の必需品となっていました。このほか商店のチラシである引札(ひきふだ)には、新旧の略歴を記載するものが多く見られました。暦や縁起の良い絵といった図柄を使う広告は、その後の企業カレンダーへとつながっていくことになります。