平成13年1月16日(金)~5月13日(日)
平安時代後期、11世紀後半になると、博多には「博多綱首(はかたこうしゅ)」と呼ばれる中国貿易商人を中心に、多くの中国人が住むようになり、当時の史料では「博多津唐房(はかたつとうぼう)」、後世の伝承では「大唐街(だいとうがい)」と呼ばれるチャイナ・タウンが形成されました。このチャイナ・タウンは、その後の国際都市博多の出発点となり、13世紀後半の蒙古襲来に至るまで、ほぼ200年間にわたり存在しました。
中国風の特異な瓦の出土地点などから、その位置は当時の陸側の砂丘「博多浜」にあって、現在の櫛田神社(くしだじんじゃ)、聖福寺(しょうふくじ)、承天寺(じょうてんじ)を結んだ500メートル四方の地域が想定され、また発掘された遺構や遺物から、次第に日本人と混住していったものと考えられます。
中華街で有名な長崎、横浜、神戸に先んじて、博多に日本最初のチャイナ・タウンが形成されていたことは一般に知られていません。今回の展示では、今から900年前につくられた博多のチャイナ・タウンを文献史料や考古資料から紹介します。
1. 唐房関係の文献
平安時代後期、11世紀後半になると、鴻臚館(こうろかん)での官貿易は衰え、中国商人による私貿易が始まりました。中国貿易商人たちはしだいに博多に住みつき、「博多綱首」と呼ばれ、寺社や貴族などの権門(けんもん)と結びつきながら、船主ないし船長として日中間を盛んに往来し、東アジア海域で積極的な貿易活動を行いました。博多は「博多綱首」を中心に多くの中国人が住むようになり、当時の史料では「博多津唐房」(「房」は「坊」に通じ、町の区画を表す)、中国明代末期の伝承では「大唐街」と呼ばれるチャイナ・タウンがつくられました。この中国人街は、文献史料から13世紀後半の蒙古襲来に至るまでほぼ200年間にわたり存在したと考えられます。
2. 港・道・仏地の景観
博多区店屋町冷泉(てんやまちれいせん)公園東側では、波打ち際に廃棄された12世紀初めの白磁の山が出土し、当時の博多の港(荷揚げ場)は「博多浜」の西部にあったものと推定されます。また、「博多浜」の中央部にあたる店屋町や冷泉町周辺からは多くの中国製陶磁器類が一括して出土し、これらを取り扱う事務所や倉庫が軒を連ねていたと考えられます。「博多浜」の東部では、1195年(一説では1204年)、かつて宋人が建てた「博多百堂(はかたひゃくどう)」(仏堂)の跡地に栄西によってわが国最初の禅宗寺院聖福寺が建立され、また、1242年には博多綱首謝国明(しゃこくめい)によって聖一国師(しょういちこくし)を開山に迎えて承天寺が創建されました。いずれも博多居住の中国人の直接・間接の援助によって建てられたもので、チャイナ・タウンの中核として、かれらの活動のより所となったものです。
1 花卉文軒丸瓦と押圧波状文軒平瓦 |
2 井戸枠に結桶を使った井戸 |
3. 中国風の建物
現在の櫛田神社、聖福寺、承天寺を結んだ500メートル四方の地域から花卉文(かきもん)の軒丸瓦、下端がフリルのように押圧された波状文(はじょうもん)の軒平瓦(写真1)、薄手で小振りの平瓦、さらに大棟(おおむね)の両側に置かれた鴟吻(しふん)(鯱(しゃち)の祖形)など、中国中・南部に起源する特異な瓦が相ついで発見されています。宋人によって建てられた「博多百堂」(仏堂)や民家などに使用されたのではないかと考えられ、国際的でエキゾチックな屋根瓦が建ち並ぶ、当時のチャイナ・タウンの光景を思い浮べることができます。ただし、中国起源の結桶枠(ゆいおけわく)の井戸(写真2)や日本的な掘立柱建物以外には、現在のところレンガ積みの四合院(しごういん)などの建物遺構は発見されておらず、中国人たちは日本人と混住、雑居していたものと考えられます。
4. 日常の生活道具
博多区冷泉町
(れいせんまち)の発掘(博多79次調査)では、ゴミ捨て穴や地下貯蔵施設の跡から火事で焼けて捨てられた陶磁器などがひとまとめにして発見されました。そのなかには12世紀前半の白磁碗や皿、鉢、天目茶碗
(てんもくちゃわん)(写真3)、青白磁(せいはくじ)の合子
(ごうす)や灯火器(燭台
(しょくだい))などの中国陶磁器のほか、土師器
(はじき)の坏
(つき)や皿、瓦器碗
(がきわん)、滑石
(かっせき)製の石鍋や権
(けん)(はかりのおもり)、砥石
(といし)などの日本製品も出土しました。これら和と中とが折衷した品々は、博多居住の中国人が身の周りで使った日常の生活道具とみることができるでしょう。そのほかに、当時の中国人が日用品として使ったものとして、特殊なタイプの白磁の碗や皿、素焼
(すやき)人形(写真4)、ガラス壷などの中国製の調度品が出土しています。
(林 文理)
3 黒釉の天目茶碗 4 まりを抱えた子供人形 |
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