平成13年2月27日(火)~5月27日(日)
はじめに
吉野ヶ里出土銅鐸 |
「九州の銅鐸(どうたく)?そんなの教科書に載ってなかったし、学校で習ってない」と思った方が多いのではないでしょうか。もう75年も前に、哲学者の和辻哲郎(わつじてつろう)が、九州を「銅剣(どうけん)・銅矛(どうほこ)文化圏」、近畿地方を「銅鐸文化圏」と呼んでから、弥生時代はこの二つの地方が対立してきたかのように思われてきました。しかし各地で考古学の調査が進んでくると、それほど単純にはいかないことが、だんだんわかってきたのです。たとえば九州以外でも、島根県荒神谷(こうじんだに)遺跡から、大量の銅剣・銅矛が出土して、大きなニュースとなったのは記憶に新しいところです。そして1998年には九州佐賀県の吉野(よしの)ケ里(り)遺跡で、とうとう銅鐸そのものが発見されました。
今回はそんな最新の研究成果の紹介として、九州の銅鐸関連遺物を集めてみました。展示をみて、「こんなに出ている!」と思いますか。それとも「まだこれだけ?」と思いますか
1.「九州の銅鐸」事始め
「有銘銅鐸」 |
日本で青銅器が発見され始めた頃から、銅剣・銅矛などの武器は九州地方から、振り鳴らすカネである銅鐸は近畿地方で多く見つかることは気づかれていました。ところが1929年、九州帝国大学の中山平次郎(なかやまへいじろう)は「九州に於ける銅鐸」という論文で、九州出土の可能性がある銅鐸3点を紹介しました。しかもその内の一つには、漢字の銘文があるというのです。
残念ながら今では、「有銘銅鐸」を含めて二つの銅鐸は九州出土ではないと考えられています。しかし、行方不明の九大病院出土銅鐸は、吉野ケ里銅鐸発見により再び注目を集めています。
2.小銅鐸と銅鐸形土製品
戦後早い時期から、九州でも銅鐸形の土製品、青銅製品(小銅鐸)が発見され始めました。中でも春日市大南(おおみなみ)遺跡出土小銅鐸は、鐸身部に文様を持ち、銅鐸の祖形ではないかといわれました。また大分県宇佐市別府(びう)遺跡では、朝鮮半島製の小銅鐸が出土し、近畿地方の銅鐸も、朝鮮半島の銅鐸を起源として、九州経由で生まれたのではないかという説も現れました。これらの九州の銅鐸関連資料は、弥生時代の中期後半より下るものが多く、九州の研究者の多くはこの時期頃に銅鐸の出現を考えたので、弥生時代前期の終わり頃に最古の銅鐸が出現するとしていた近畿の研究者と、激しい論争になりました。
3.銅鐸鋳型の発見
赤穂の浦遺跡出土銅鐸鋳型 |
1980年、佐賀県鳥栖市安永田(やすながた)遺跡で、九州で初めて銅鐸の鋳型が発見されました。これにより、九州でも銅鐸が鋳造されていたことが明らかになりました。ここで作られた銅鐸は、主に山陽・山陰地方で出土するものと共通する特徴を持つものです。しかし銅鐸そのものはまだ発見されていなかったため、山陽・山陰地方への搬出用に鋳造したという意見も出ました。また、福岡市赤穂(あこう)の浦遺跡など発見例も増えましたが、やはりいずれも弥生時代中期後半以降の資料であり、年代論争には決着が付きませんでした。しかしその後、九州・近畿の双方で弥生時代中期前半には青銅器の生産が始まることが明らかとなり、近畿ではその時期の銅鐸の鋳型も発見されたことから、九州の銅鐸が、近畿の銅鐸の直接の起源であるとするのは、問題が多いとされています。
4.ついに銅鐸発見
1998年、佐賀県吉野ケ里遺跡で、発掘調査に先立つ表土除去作業中、鈕(ちゅう)(釣り手)を下に向け、逆立ちして埋められた銅鐸が出土しました。銅鐸はそれまでに発見されていた鋳型と、文様などの特徴が同じで、九州でも製作だけでなく、銅鐸を用いた祭祀が行われていた可能性が強くなりました。また九州製の銅鐸を詳しく調べていくと、近畿の銅鐸と、九州の銅矛の両方に共通する製作技法が用いられていることもわかってきました。こうして長い論争や調査の末、九州にも銅鐸があったことがようやく明らかになりました。ただし、近畿地方に比べて圧倒的に少ない状況には変わりなく、九州でどんな使われ方をしたのかを究明することが、今後の課題になるでしょう。
5.ムラ・墓の祭祀の青銅器
雀居遺跡馬鐸出土状況 |
吉野ケ里銅鐸も含めて、九州の銅鐸関連資料は主に集落遺跡の内部や、集落からそれほど遠くない周辺部で見つかっています。また福岡県原田(はるだ)遺跡出土小銅鐸のように、副葬品として墓から見つかる例もあります。これは、近畿の銅鐸や、九州の銅矛・銅戈などの武器形祭器が、人里離れた山の斜面などで発見されるのとは異なっています。
ここでは銅鐸と同様、九州の集落関係の遺跡や、副葬品その他の墓関連の遺跡で発見された青銅器を中心にムラや墓のマツリで使われたと思われる遺物を集めてみました。(宮井善朗)