平成13年4月3日(火)~平成13年6月3日(日)
猪の目前立阿古陀形八間筋兜 |
古来、戦場で武士が被る兜は、平安末から鎌倉時代に代表的な星兜(兜の鉢の鉄板が鋲留で星のように並ぶもの)から、南北朝時代をへて、室町時代にはだんだんと作りやすい筋兜(鉢の鉄板の留めが筋となっている)に替わりました。その後の戦国時代から安土桃山時代、江戸時代にかけて、武士の兜は様々な飾りや形の物が生み出されました。
これらの兜、とくに鉢の部分は、朽ちやすい具足の部分とは違って、子孫につたえられ、その武家の家のシンボルとなり、現在に伝わった物が少なくありません。また江戸時代には、太平の世を反映して、武士の被り物も、消防の火消しや警備、行列の供、と言った様々な役目で被る火事兜、陣笠、また簡易な武装で頭を守る物など、様々なものが作られました。
この展示では、本館の開館後、約10年間に収集した、北部九州の諸藩の武家資料などから、変わり兜や甲冑、そのほか様々な被り物を展示します。また黒田資料の中からも、全国的に有名な変わり兜を紹介します。
立物(飾り)の珍しい兜
白四手脇立黒漆塗叩頭巾形兜 |
伝統的な兜(星兜、筋兜)に、家紋が付けられたり、月、星、あるいは植物、 動物、想像上の生き物などから珍しいデザインをとった飾りが付けられたりしています。しかも前立だけでなく、兜の側面の飾り(脇立)、あるいは、後部の後立、天辺(てっぺん)の飾り(頭立)をもつものも現れました。これは合戦の規模も大きくなり、しかも騎馬だけでなく徒歩での戦闘も多くなるとともに、一般の武士までも自分や家が目立つようにするためと言われています。また伝統的な星兜、筋兜といっても、たとえば筋兜の一つに形が南瓜に似た阿古陀形なども作られました。江戸期などの後の時代にはかなり精巧な物もでき、張り合わせる鉄板の数を多くしたため星や筋の数が大変多い物もあります。
変わった形の兜(当世兜)
戦国時代のなかごろから安土・桃山時代にかけては、合戦の規模もさらに大きく、数多くの兜が必用となりました。また新兵器鉄砲も現れました。そのため、兜の鉢をつくる鉄板の張り合わせ方に様々な工夫がされ、作り方が簡単で、しかも、その張り合わせ形によって、色々なタイプの兜が生まれました。日根野備中守が工夫した日根野頭形などの、頭の形に合わせた頭形が一般的ですが、ほかにも桃に似せた桃形、手ぬぐいを頭に置いたような置手拭形、烏帽子に似せた烏帽子形といったものが見られます。もちろん奇抜な飾りの立物がつけられているものや、紙などの張り子をかぶせて奇抜な形に仕上げた物もありました。さらに兜の作り方では、鉄板を張り合わせる段階で奇抜な形を作り、その兜だけという独自の形をみせているものもあります。展示資料の中では、秋月藩の重臣の家に伝来した兜は、叩塗りという漆塗りの手法で、頭巾のような形をしています。大名でも自分で形を工夫する人もあり、小倉藩主細川忠興が考えた越中頭形が有名で、彼の家臣の武士も被っています。さらに大名家ではお抱えの具足師に命じて、統一した形の簡易な兜を持つ番具足を作らせ、下級家臣に支給するため保管していました。また足軽や動員した人々に被らせる陣笠もありました。
江戸時代の武家の被り物
瓦頭立置手拭形兜 |
合戦のなくなった天下太平の時代の武士は兜を身につける事は、儀式や軍事訓練などを除いてはなくなったでしょう。この展示では、おもに武士の公的な役目に関わる被り物を紹介します。まず警備や治安維持、工事の監督、あるいは藩の行列での行進など、武士が勤める役目での様々な機会では、黒漆塗りの家紋入 陣笠などが着用されました。これらは御用をつとめる武士の威厳を示した事でしょう。また火事における消火の任務では、革などを張り合わせて兜のようつくった火事兜が使われました。とくに福岡藩主の火事兜など、家紋の刺繍で飾られたきらびやかな物もあり、その存在をアピールするかの如くです。このほか、簡易な武装で頭を守るための被り物、あるいは実戦のための簡易な陣帽もあります。さらに幕末には韮山笠など砲術訓練にそなえた新しい被り物も現れました。
福岡藩主の変わり兜
福岡藩初代藩主黒田長政は、その父如水と共に、変わり兜の武将として有名です。如水は豊臣秀吉に仕え、その知謀で有名ですが、その兜は赤合子と呼ばれ、湯飲みの形をし、赤漆で塗られた物です。戦場では如水の赤合子として恐れられたそうです。後の3代藩主光之が如水を偲んで作らせた物が残っています。長政は徳川家康に味方した武功によって筑前の大名となりました。その兜は若い頃の大水牛脇立兜、家康から拝領の羊歯前立南蛮鉢兜、天下分け目の関ヶ原合戦で着用した銀箔押一ノ谷形兜など多彩で、かれの武将としての個性を偲ばせます。