平成13年9月26日(水)~平成13年11月25日(日)
クルマの車窓から生(いき)の松原や今津(いまづ)の松原を見て、なつかしい博多湾の白砂青松(はくさせいしょう)の風景を想い出される人も多いことでしょう。
千代松原(ちよのまつばら)とか十里松(じゅうりまつ)、また江戸時代には博多松原と呼ばれていた箱崎松原は、博多の石堂橋(いしどうばし)から筥崎宮(はこざきぐう)にかけての浜辺約2キロにわたり、うっそうとした黒松の松林を形づくっていました。しかし、現在では都市化にともない、松林は切り倒されたり、枯れてしまったり、すっかりそのおもかげを失ってしまいました。
博多湾の松原の景観は、時代とともにどのように変化してきたのでしょうか。今回の展示では、神木(しんぼく)としての保護、植林、伐採などに注意しながら、文献や絵画などの資料から箱崎松原を中心に、博多湾の松原の移り変わりをたどってみます。
1 筥崎宮の神木「筥松」 2 筥崎松の「採用」を禁じた 康正2年(1456)の大内氏禁制 (天地切断、『田村文書』) 3 植林された江戸時代の 箱崎松原(『福岡図巻』より) |
1 神木であった松原(古代~中世)
箱崎松原の松は、延長元年(923)とされる筥崎宮の遷座(せんざ)以来、筥崎宮の聖なる神木(しんぼく)(応神(おうじん)天皇の胞衣(えな)を入れた筥(はこ)を埋め、しるしの松を植えたという「筥松(はこまつ)」がその象徴 写真1)とされ、中世では時の支配者によって、たびたび伐採の禁制(きんぜい)(写真2)が出され、保護されてきました。そのためか、歌人たちによって、箱崎松原の松は、たびたび名所「千代松原」として詩歌に詠(よ)まれてきました。また、日本国内のみならず朝鮮や中国などの記録にも、「十里松」の名称で知られるようになりました。天正15年(1587)、箱崎が九州攻めの陣所となったこともあって、天下人豊臣秀吉(てんかびととよとみひでよし)が野点(のだて)の茶会を箱崎松原で催すこともありました。このことは、以前までの神木としての意識が、薄らぎはじめたことを表しているように感じられます。
2 植林された松原(近世)
江戸時代初期には、藩命により、博多湾岸の浜辺に松の植林が行われました。慶長15年(1610)には箱崎の東の砂原の空地に、元和4年(1618)には紅葉(もみじ)原(百道(ももち)原)の砂浜に、さらに万治3年(1660)には海(うみ)の中道(なかみち)の白浜に松が植えられ、繁茂して、それぞれ地蔵松原、紅葉松原(百道松原)、海の中道松原と呼ばれるようになりました。また、防風、防砂、防潮などの役割を維持していくために、松原には繰り返し植林が行われました。さらに、以前からあった箱崎松原(写真3)や生(いき)の松原などの松林もこまめに整備され、その結果、湾岸の浜辺が松原によって取り囲まれるという博多湾の景観が形づくられました。
4 近代的建物が建ち並ぶ昭和10年前後の箱崎松原 (吉田初三郎の博多観光鳥瞰 図原画より) |
3 切り倒された松原(近代~現代)
明治時代に入り、東公園の開園、路面電車や鉄道、道路の建設、九州大学医学部や付属病院の設置、海岸の埋立て、県庁建物の移設などの都市化・宅地化にともない、箱崎松原の松(写真4)は次々と切り倒され、またマツクイムシの発生、排気ガスなどによって松林は次第に枯れていきました。現在では江戸時代以来の松原は、その面影(おもかげ)をすっかり失ってしまいました。
今後、博多湾の松原はどうなっていくのでしょうか。松原の役割は本当になくなったのでしょうか。いま、その在り方について真剣に考える時にきているように思われます。
(林 文理)