平成13年12月4日(火)~平成14年3月31日(日)
《立花町指定文化財》
1 木造金剛力士像(もくぞうこんごうりきしぞう) 1対
八女郡立花町 谷川寺(こくせんじ)
像高(阿形)195センチメートル/(吽形)205センチメートル/鎌倉時代(13世紀)
体幹部と腕をそれぞれ芯を含むクスノキの一材から彫り出した、重量感あふれる仁王像です。
体部に対して頭部が大きく、太く寸詰まりのような体形は独特ですが、様式的には、平安時代後期の長承3年(1134)に制作された京都・醍醐寺(だいごじ)の金剛力士像、あるいは長寛元年(1163)制作の京都・峯定寺(ぶじょうじ)の金剛力士像などが本像に近い作例として注目されます。
ただ、素朴ながらも立体的で激しくうねる腰付近の衣の表現は、鎌倉時代にあらわれる彫刻的表現とみることもでき、制作年代についてはなお検討する必要があります。
また、材質が九州に多いクスノキであることや、内刳りを施さず屈曲した腕を芯を含む一材から彫出するなど、合理的とは言い難い技法も各所に認められます。これらのことは、おそらく本像が当地で制作されたことを物語っています。
谷川寺は奈良時代に行基(ぎょうき)が開き、鎌倉時代初期に源頼朝によって中興されたと伝えられる真言宗の古刹です。現在、この仁王像のほか平安時代前期に遡る本尊の薬師如来像など、貴重な文化財を守り伝えています。
阿形 |
吽形 |
《大牟田市指定文化財》
2 木造金剛力士像(もくぞうこんごうりきしぞう) 1対
大牟田市 普光寺(ふこうじ)
像高(阿形)174.7センチメートル/(吽形)177.6センチメートル/室町時代(15世紀)
阿形像の頭部内に記された墨書銘から制作年と作者などがわかる、等身大の仁王像です。
銘文には室町時代の文明5年(1473)に三池(大牟田市)一帯を支配した三池親澄(みいけちかずみ)を願主として、運慶から数えて9代目を名乗る仏師康永(こうえい)、及び弟子の正永(しょうえい)によって制作されたことが記されています。
本像は身体各部のバランスが整い、地方性の強い素朴な作例が多くなる室町時代の仁王像の中では、比較的洗練された作風を示しています。
構造は頭部はヒノキによる前後2材、体部は九州地方に多いクスノキによる前後3材の寄木造で、頭部と体部で別の材木を用いている点が注目されます。
頭体の材質が異なるのは、頭部を京都などで作り、体部を当地で制作したことを示しているのかもしれません。また、阿吽両像のうち、吽形像の頭部にはかなり焼け焦げた跡があり、本像が1度火災にあったことを示しています。
普光寺は三池山の中腹の、大牟田市街を見下ろす位置にある天台宗寺院で、春には県天然記念物の臥竜梅(がりょうばい)が咲くことでもよく知られています。
阿形 |
吽形 |
3 木造金剛力士像(もくぞうこんごうりきしぞう) 1対
前原市 千如寺大悲王院(せんにょじだいひおういん)
像高(阿形)88.7センチメートル/(吽形)86.7センチメートル/南北朝時代(14世紀)
仁王像は寺院の山門に阿吽1対で安置されるのが普通ですが、千手観音(せんじゅかんのん)を守る二十八部衆として四天王や梵天(ぼんてん)・帝釈天(たいしゃくてん)など他の天部とともに群像として構成されることがあります。
本像は雷山(らいざん)中腹にある千如寺の本尊で、像高4.6メートルの千手観音像を取り囲むように安置される木造二十八部衆の中の仁王像です。
吽形が密迹金剛力士(みっしゃくこんごうりきし)、阿形が那羅延堅固王(ならえんけんごうおう)と個別の名前で呼ばれ、双方ともに逞しい上半身をあらわし、外敵を威嚇するかのようにポーズをとっています。
この仁王像は彫刻としてみたとき、身体の動きがやや硬く、鎌倉時代に運慶や快慶が制作した東大寺南大門の金剛力士像などに比べて写実性が薄らぎ、その反面顔立ちなどに親しみやすさが加わっています。筋肉の表現にも形式化がみられるため、他の木造二十八部衆と共に南北朝時代に制作されたと思われます。
雷山千如寺は奈良時代に清賀(せいが)上人が開いたと伝えられる真言宗の寺院で、鎌倉時代の蒙古襲来を契機に祈祷寺院として活発に活動しました。本尊千手観音像をはじめ現存する主要な仏像もおそらく鎌倉から南北朝時代にかけて段階的に制作されたものと考えられます。
阿形 |
吽形 |
4 木造金剛力士像(もくぞうこんごうりきしぞう) 1対
福岡市中央区 金龍寺(きんりゅうじ)
像高(阿形)168.0センチメートル/(吽形)164.5センチメートル/江戸時代(18世紀)
金龍寺の山門に安置される等身大の仁王像です。材質はクスノキで、阿形は頭体それぞれ前後3材、吽形は前後2材の寄木造で、いずれも内刳りが施されています。
阿形と吽形とでは面部や体部前面の肉身表現が異なり、立体感の乏しい阿形にはかなり後世の修理の手が加えられているようです。
吽形を中心にみると、身体の体勢はあまり腰を捻らず、胸の筋肉などはふっくらとした膨らみであらわされています。このような表現は江戸時代の仁王像にはしばしば見られ、写実よりも形式的な分かり易さを志向しているようです。
金龍寺の山門には他にも江戸時代の福岡仏師佐田源兵衛(さだげんべえ)が制作した十六羅漢像が安置されています。本像の材質が九州に多いクスノキであることも含めて、江戸時代に当地の仏師が制作した可能性が考えられます。
金龍寺は室町時代に怡土郡(いとぐん)(前原市)一帯を支配した原田氏の菩提所として創建された曹洞宗寺院です。慶長16年(1611)に怡土郡にあった金龍寺とは別に、荒戸山(福岡市中央区)に改めて建立され、さらに正保4年(1647)に現在の場所に移されました。
阿形 |
吽形 |