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No.195

歴史展示室

公園

平成13年12月18日(火)~平成14年2月24日(日)

「公園」との遭遇

 幕末から明治の初年に欧米を訪れた日本人は、その近代的な街並みに目を見張りました。その街並みには、煉瓦(れんが)造りの洋風建築、整備された道路などの他に、「公園」も含まれていました。
 ヨーロッパの公園の起源は、大まかに次の3つに求めることができます。1.都市を囲んでいた城壁の跡地の整備、2.王侯貴族の庭園や3.狩猟場の一般開放。これらに加えて、近代に新たに造成、整備してつくりあげた公園もあります。欧米で公園が積極的に造られ始めたのは、19世紀に入ってからのことです。
 例えば、ロンドンのハイド・パークは、16世紀以降王室の狩猟場でしたが、17世紀になると、時々民衆に開放されるようになりました。そして、1851年に万国博覧会の会場になって以降、公園として広く開放されました。ニューヨークのセントラル・パークは、その造成が始まったのは1850年代、全体の造成が完成するのは1873年だそうです。
 ちょうど、明治維新の前後の19世紀半ばは、欧米で、公園を含む近代的な街並みが整備されたばかり、あるいは整備されつつある時期だったのです。


「公園」の誕生

 幕末には横浜や神戸の居留地(きょりゅうち)に暮らす外国人から、遊歩道や公園の設置を求める要求がでており、それに応じる形で整備がすすめられています。横浜の横浜公園、山手公園はどちらもそうした経緯で誕生した公園です。
 しかし、公園の設置を法的に宣言したのは、明治6(1873)年1月15日付で出された太政官布告(だじょうかんふこく)でした。この布告で、府県が公園にふさわしい場所を選ぶことになったのです。東京では浅草寺(せんそうじ)(浅草公園)、増上寺(ぞうじょうじ)(芝公園)、寛永寺(かんえいじ)(上野公園)、富岡八幡宮(とみおかはちまんぐう)(深川公園)、飛鳥山(あすかやま)(飛鳥山公園)を公園としました。飛鳥山は、享保年間(1716~36)に花見の名所として整備された場所であり、他の4ヶ所は、いずれも人々が集まる有名な社寺の境内です。
 この太政官布告が出されたのは、ちょうど地券(ちけん)の発行がすすめられていた時期でした。近代的な土地制度が整えられていく過程で、社寺の境内などの処分が課題の1つになっていました。明治維新以来、荒れ始めていた社寺の境内地をどのように維持させるか。廃されることが決まった城は、その広大な敷地をどのように利用するか。など、多くの課題を背景に、そして、欧化政策を前提に、日本の公園は誕生したのです。
 初期の公園には、花見の名所や風光明媚で有名な場所、大きな社寺の境内地などが多く含まれます。しかし、明治時代半ばになると、本格的な西洋風の公園がいよいよ計画されます。東京の日比谷(ひびや)公園です。開園したのは明治36(1903)年6月1日のことです。用地が決まったあと何度もプランを練り直した結果でした。


都市公園

 ところで、都市公園について定めた法律は長い間ありませんでした。明治6(1873)年1月の太政官布告の後は、都市計画の中で検討を重ねていたにすぎません。そのため、日本一の都市=東京の都市計画の事例が、日本の都市公園の歴史になるといっても過言ではありません。都市公園について定めた都市公園法が公布されたのは昭和31(1956)年のことです。
 現在、最も身近な公園は、家から歩いていける距離にある「児童公園」でしょう。その起源は、東京の都市計画の中で設置されていった「小公園」だといわれています。関東大震災(大正12・1923)後には、防災上の面からも公園の必要性が盛んに説かれますが、「小公園」が子どものための公園として整備がすすんだのには訳があります。児童心理学や社会学の立場から、幼児や児童のための公園の必要性が主張されていたのです。


自然公園

 都市の中につくる公園=都市公園に対して、自然保護のため広い地域を公園に指定する自然公園があります。1872年にできたアメリカ合衆国のイエローストーン国立公園がその最初の例です。
 日本では、昭和6(1931)年に国立公園法が公布されましたが、それに先立ち、昭和4年に国立公園協会が発足し、国立公園の設置を支援しました。昭和9年3月には最初の国立公園として、瀬戸内海、雲仙天草、霧島屋久の3地域が指定されました。
 昭和32年に国立公園法にかわって自然公園法が公布され、現在にいたっています。自然公園には、国立公園、国定公園、都道府県立自然公園が含まれます。


福岡の公園

「福博鳥瞰図」より

東公園


西公園

 福岡市にある東公園と西公園は、明治時代にできた公園です。同じ頃できた日本の公園の多くが、江戸時代からの名所であったのと同様に、東公園は千代松原(ちよまつばら)、西公園は荒戸山(あらとやま)という景色が良いことで知られた名所でした。
 東公園のシンボルは、公園中央の高台に建つ亀山上皇の銅像です。亀山上皇像とその隣の日蓮上人像が完成したのは、日露戦争中の明治37(1904)年12月です。しかし、東公園の歴史は、そこから30年近くさかのぼることができます。東公園(当時は東松原公園と呼んだ)は、明治9年(一説には明治10年)に開園しました。明治21年、博多全町維持区域に指定されて、公園の維持にあたることになりました。そして、明治22年には公園の維持・整備のための住民の組織「愛園会」が結成されました。愛園会は、公園の維持・整備のためにその収益を遣いたいとして、福岡城の佐賀堀と中堀の払い下げを願い出ています。結局、堀の払い下げは、中学校(旧制)や奨学基金のために遣いたいと願い出ていた旧藩主の黒田家へと決まり、実現しませんでしたが、住民が積極的に公園の整備に関わっていた様子がうかがえます。
 西公園にある光雲(てるも)神社の石段の手前に『荒津(あらつ)公園成立之記』が刻まれた石碑があります。そこには、西公園が誕生して以来、明治時代にどのような経緯があったかが記されています。それによれば、西公園(当時は荒津山公園と呼んだ)は、明治14(1881)年に「近傍数町有志者ノ請願」によって誕生しました。福岡全町(明治24年発行の『福岡市誌』によれば西新町も含む)が維持区域に指定されたのは明治21年のこと。そして、明治22年12月、桜425株、桃100株、海棠(かいどう)50株が地元有志によって植樹され、今日の桜の名所としての基礎が築かれました。また、明治23年には東公園と同様に、公園の維持・整備のための組織「愛勝会」が結成され、「貴顕ノ休憩所トシテ」舞鶴館を新築するなどの活動を続けたようです。また、福岡城址の大堀からの収入が公園維持のための基金として遣われていたようです。西公園には、第二次世界大戦中の金属回収で撤去された記念碑がありました。日清戦争および日露戦争の戦勝記念碑、福岡藩の勤王家加藤司書(かとうししょ)および平野国臣(ひらのくにおみ)、日露戦争で活躍した筑前出身の軍人吉岡友愛(よしおかゆうあい)大佐の銅像です。平野国臣像は昭和39(1964)年に再建されましたが、かつては名所絵はがきにも登場していた他の記念碑や銅像はすっかり忘れ去られてしまいました。
 東公園と西公園は、その誕生からしばらくの間、地元住民の力で維持・整備されてきましたが、明治33年、その維持・管理は完全に福岡県にゆだねられることになりました。
(太田暁子)

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