平成14年2月26日(火)~4月21日(日)
死を覚悟した時、何を思うのか?人生観が凝縮(ぎょうしゅく)される遺言(ゆいごん)。本展覧会では、戦国時代から江戸時代初頭の激動の時代を生きた四人の遺言を通して、彼らがみた動乱の時代を読み解きます。
黒田如水(くろだじょすい)(孝高(よしたか))(1546~1604)は、織田信長(おだのぶなが)の天下統一を予感し、豊臣秀吉(とよとみひでよし)の軍師(ぐんし)として天下取りを助けました。しかし、朝鮮出兵(ちょうせんしゅっぺい)では秀吉の勘気(かんき)を蒙り、謹慎蟄居(きんしんちっきょ)となります。この時、如水は死を覚悟して、息長政(ながまさ)に後継者の選定や家臣の用法等について教訓しました(図2)。長政はこれを晩年になってよろずの模範とすべく息忠之(ただゆき)に授けています。如水は関ヶ原(せきがはら)の戦では大友吉統(おおともよしむね)等の西軍を打ち破り、北部九州を席巻しました。そして天下が徳川家康(とくがわいえやす)の手中に帰したことを見届け、慶長(けいちょう)9年(1604)、京都伏見(きょうとふしみ)で没しています。辞世(じせい)の句(図3)では、混沌(こんとん)とした時代を己の知略で存分に生きた如水の潔い心境が発揮されています。
図2 黒田如水自筆覚書(後半) (史料1) |
図1 黒田長政遺言覚 (冒頭) (史料6) |
おもひをく言の葉なくてついに行/ 道はまよハじなるにまかせて/ |
如水(花押) 図3 黒田如水 辞世和歌短冊 (史料2) |
知の如水に対し、黒田長政(1568~1623)は、数々の戦いで勇名を馳せ、関ヶ原の戦の軍功により筑前(ちくぜん)一国の大名となりました。長政も死の2日前に、重臣栗山大膳(くりやまだいぜん)・小河内蔵允(おごうくらのじょう)に後事を託し、遺言を遺しました(図1・4)。家康の天下取りはひとえに父如水と自身の忠功の賜であることを自負し、将来不測の事態が起きてもこの大功により筑前一国を確保するよう命じています。
筑紫広門(ちくしひろかど)(鎮恒(しげつね))(1556~1623)は肥前勝尾城(ひぜんかつのおじょう)に拠(よ)って、肥前・筑前・筑後(ちくご)3カ国の国境地帯を領し、北部九州に覇(は)を唱えました。九州平定で筑後上妻(こうづま)郡に移封(いほう)されますが、関ヶ原の戦では、息茂成(しげなり)が西軍に味方したため、あえなく改易の身となり、加藤清正(かとうきよまさ)・細川忠興(ほそかわただおき)の食客として余生を送ることになります。元和9年(1623)4月23日、豊前小倉(ぶぜんこくら)において、息子の再仕官、細川忠興への報恩を念じて死去しました(図5)。
図4 黒田長政遺言覚(末尾) (史料6) |
図5 筑紫夢庵(広門)遺言状 (史料12) |
博多(はかた)の豪商嶋井宗室(ごうしょうしまいそうしつ)(?~1615)は、徳川氏の覇権(はけん)が確固たるものとなった大坂夏(おおさかなつ)の陣(じん)の後に死去しました。宗室は死に先立つこと5年、孫で養嗣子となった信吉(のぶよし)に対し、聖徳太子(しょうとくたいし)の十七条(じゅうしちじょう)の憲法(けんぽう)になぞらえて、十七ヶ条にわたって商人としての処世術を遺言しています(図6)。天下人らと交わり、多くの茶会にも名を連ねた宗室でしたが、茶湯等の様々な数寄(すき)への執心を戒め、堅実な商売を求めています。時代の趨勢(すうせい)は、天下の豪商たることを許さず、一藩(はん)の御用商人(ごようしょうにん)として生きて行かざるをえないことを察知したものでしょう。
(堀本一繁)
図4 嶋井宗室遺訓(後半) (史料17) |