平成14年6月11日(火)~7月21日(日)
今年もまた6月19日がやってきました。57年前の昭和20(1945)年6月19日の夜半、福岡市はアメリカ軍の空襲を受けました。以後福岡市では、この日を「福岡大空襲の日」として、慰霊や平和を願うさまざまな行事を行っています。当館でも、平成3年より「戦争とわたしたちのくらし」と題して、館蔵の戦時資料を展示し、このたびその11回目を開催することとなりました。
今回は戦時期に作成されたポスターを展示します。
これらは戦争に勝つために、国民の戦争に対する気持ちを鼓舞(こぶ)することを目的に作られました。文言(もんごん)には、当時盛んに使われた「戦時の言葉」が含まれています。
図柄は1930年代に流行ったアール・デコ様式の影響を受けた、直線的なタッチやデフォルメ、クローズアップといった手法が取り入れられました。これらのポスターから、戦時期の市民生活の様子を探っていきます。
この展示が、みなさんが戦争や平和について考えてみるきっかけのひとつになればと思っています。
■「兵隊さん」のポスター
昭和12年7月の蘆溝橋(ろこうきょう)事件をきっかけに、日本は中国と戦争状態になりました。戦争中は戦場の兵士たちを描いたポスターが多く作成されました。その姿は勇ましく、そしてある時は優しい兵士として描かれました。また、陸軍と海軍の兵士、航空兵であるということが、それを見た国民がすぐにわかるよう、その特徴がデフォルメされて描かれました。陸軍の兵士はヘルメットと星の徽章(きしょう)、海軍は水兵の帽子と錨(いかり)、航空兵は飛行帽などで表現されました。
■戦地の風景
20世紀半ばの日本の長い戦争は、昭和6年9月の満州事変(まんしゅうじへん)で始まりました。その後昭和12年からは中国と全面戦争となり、この戦争は結局、昭和20年8月まで続く長いものとなりました。また、昭和16年の真珠湾攻撃(しんじゅわんこうげき)・マレー半島上陸で、アメリカ・イギリスなどの連合国軍との戦争(太平洋戦争)も始まりました。これらの戦争で日本軍が戦った場所は、中国・朝鮮半島・南洋諸島・沖縄をはじめとする、太平洋とその沿岸の広範な地域に及びました。
■銃後の女と子ども
兵士が戦う戦場に対し、国民が暮らす場所は銃の後ろという意味で「銃後(じゅうご)」と呼ばれました。この言葉は生活の場所というだけでなく、国民生活全般を指す語として使われました。その銃後で戦争を支えたのは男性ばかりではありません。多くのポスターで、明るくひたむきな女性が戦意を高揚(こうよう)させました。その相手は男性とは限らず、同性である女性の目にも、戦時期に期待される女性像として映りました。子どもたちは「少国民」と呼ばれ、同様に戦争協力を訴えました。
■見上げる視点
1930年代に流行したアール・デコ様式は、ポスターにも直線的でリズミカルなタッチをもたらしました。その影響がのこる戦時期のポスターには、デフォルメやクローズアップといった手法を使った、大胆な構図のものがみられました。軍艦や日の丸、塔などを見上げたり、大きな手が何かを持ち上げたりする図柄が好まれました。その多くは、戦争に対し肯定的なイメージを作り上げることが主要な目的で、具体的で詳細な説明が省略されることがしばしばありました。
日本万国博覧会ポスター
「幻の日本万博」といわれるこの万国博覧会は、昭和15年の「紀元2600年」記念の事業として計画されました。ポスターは、入場券発売を知らせるものです。塔のようにも見える「紀元二千六百年記念」の字の上には、神武天皇(じんむてんのう)の弓の先に留まったという金色のトビ(金鵄(きんし))が描かれています。
陸軍幼年学校
太平洋戦争開戦前の昭和16年の、陸軍幼年学校生徒募集ポスターです。この学校は13歳以上16歳未満の、高等小学校卒業生に軍人精神や外国語など、将来軍人になるためのエリート教育を行いました。戦車や飛行機を背景に、陸軍の制服を着た若者が勇ましく前方を見つめています。
たのむぞ石炭
国民に石炭増産を呼びかけるポスターです。戦争が長期化すると、資源が乏しい日本では、すぐに物資不足が問題になりました。そのため石炭も増産体制がとられましたが、実際には採炭のための資材と労働力の不足から、昭和10年代後半には生産量は減少しました。出征(しゅっせい)時に贈られた日の丸を肩に、戦場で銃を構えた兵士から「たのむぞ」と呼びかけられると、日本国民としては頑張(がんば)らざるをえないでしょう。
勝男武士
東京の鰹節(かつおぶし)問屋の組合が、戦地の兵士に鰹節を送ろうと呼びかけたポスターです。鰹節に「勝男武士」の4字を当てています。鰹は「勝魚」とも当て、鰹節は古くから縁起物として喜ばれました。日本国内から送られてくる慰問袋(いもんぶくろ)に鰹節が入っていたら、戦地の兵士たちも喜んだことでしょう。鰹節を使った鍋を囲み、楽しそうに食事をする7人が描かれています。
貯蓄で築け新東亜
貯蓄奨励ポスターです。巨大なクレーンで「百億貯蓄」の4文字を積み上げている図柄から、100億円が国民貯蓄増加目標額だった昭和14年のものとわかります。銀行預金や郵便貯金、簡易保険、いろいろな債券など、あらゆる形で集められた貯蓄は、昭和12年に始まって2年が経過しようとする日中戦争の戦費に充(あ)てられました。ポスターの背景には中国の城門と楼閣(ろうかく)のシルエットが見えます。
決戦だ 戸毎日の丸 赤十字
11月15~17日の「赤十字デー」のポスターです。太平洋戦争期の昭和17~19年のものと考えられます。図柄は「南方」の戦地に設営された野戦病院のテントで、「戸毎日の丸」のとおり、日章旗(にっしょうき)が掲げられています。手前の椰子(やし)の葉は、日本人にとって「南方」をイメージさせるものでした。アメリカ・イギリスとの戦争中は、「デー」などの片仮名語は「敵性語(てきせいご)」として禁止されました。
愛国の華 雛菊着尺
スティープル・ファイバー(略してスフ)の着物地のポスターです。戦争が長期化して物資が不足すると、鉄や石油などの軍需物資の輸入が優先されたため、毛や綿などの繊維は輸入が制限されました。そのため衣類には代用繊維であるスフを混ぜるよう指導されました。紺地に黄色の着物を着た女性がモデルの、あざやかなポスターですが、帯留めには日の丸がさりげなくあしらわれています。
(野口 文)