平成14年10月29日(火)~12月23日(月・祝)
呪とは
「呪とはな、ようするに、ものを縛ることよ」
繋馬 猿駒曳き |
これは、夢枕獏(ゆめまくらばく)さんの小説『陰陽師(おんみょうじ)』の主人公安倍晴明(あべのせいめい)の台詞(せりふ)です。わたしたちの暮らしのなかには、たくさんの願いごとがあります。それは、現代社会においても減ることはありません。まさに人の欲望の数だけあるといってもいいでしょう。
そんな庶民の願いをかたちにしたものが小絵馬です。図柄は豊富で、願いの数だけあるようにも思えるほどです。たとえば、たばこや酒樽に錠をかけた絵を描き、禁煙・禁酒。同じく「心」という字に錠で、浮気封じ。男女を背中合わせに描いて、縁切り。鎌を交差させて、イボとり。鶏を描いて、子どもの夜泣き封じ。などなど、見ていて飽きません。
そんななかに、一頭の暴れ馬を、地面に打ち込んだ一本の杭に繋(つな)ぎ止めた図柄のものがあります。馬が暴れる姿には、その願いの切実さが現れていることが、よくわかります。杭に繋ぐという点に思いをめぐらせてみると、それは、絵馬を媒体として、人と神仏をつなぐこと。いいかえれば、神仏を、人間の願いによって「縛る」ことを表しているようにも思えます。願いを聞き届けてくれるまでは、神仏といえども離しはしない、という迫力を感じるのです。これこそ、まさに「呪」です。
絵馬のはじまり
腰から下 |
絵馬は、はるか古代に生馬を神へ献上したことにはじまるといいます。『常陸国風土記』『続日本紀』などの古い文献にその記述があり、奈良・平安時代には、ついで馬形を献上することも行われたようです。馬形には土馬と木馬があり、これらは神域、古墳、集落の遺跡などから発見されています。「絵馬」という言葉は、寛弘9年(1012)6月25日に大江匡衡(おおえまさひら)が京都の北野天満宮に奉納した品々の目録中「色紙絵馬三疋」(『本朝文粋』一三)とあるのが記録に表れる最初です。平安・鎌倉時代の絵馬も出土品や絵巻などに描かれて今日に伝わっているのです。鎌倉時代の絵馬では『天狗草紙』東寺巻、『一遍聖絵』などにひっそりと描かれています。いずれも小形の絵馬で、今日いうところの「小絵馬」なのです。絵に描いた馬をエマと呼んだのは、最初は京都だけで、いわゆる京言葉だったのです。
室町時代以降には大形絵馬も作られるようになりました。画題は馬図をはじめ、武者絵・歌仙絵・芸能・船・生業・風俗・動物などがあり、専門絵師が描いたものも多く、鑑賞画としての一面をもっていました。小絵馬とは、大絵馬に対して言われることで、厳密に区分が決まっているわけではありません。大きさだけの問題ではないので複雑です。社会的な願掛けや顕彰をしたものが大絵馬であるのに対し、個人的・匿名的な願掛けをするのが小絵馬という区分がおおかたの見分け方となるように思います。
ほんとうに生馬から絵馬なのか
拝み |
以上が絵馬の歴史です。柳田國男という日本民俗学の創設者は、この定説に対して、「エマは果たして書物にある通り、馬を絵に描いて奉納したのが原であったろうか。本物の馬を差し上げることのできぬ者が、絵馬を代用に供するようになった時まで、画板を神仏に奉納する風習は、存在しなかったと言ってよいのであろうか。ただしはまたエマという京都語が地方に行われて、前の名前を隠してしまった結果、自然にそう考える人を多くしたのではないか。」(「板絵沿革」『柳田國男全集』五)というふうに、疑問を呈しています。
いまのところ、柳田説を確認できるものは見あたりません。もちろん、それは過去の記録に、公のものが多く、大多数の庶民の暮らしをわざわざ記録したものが残っていないということにすぎません。したがって、柳田の説を「とるに足らないもの」と片づけるのは、ちょっと問題が残ります。願うことの道具として「絵馬」を考えた場合、はっきりと効果のあがる方法をとりたいというのは、人の常であると思います。それは人の本質の問題であって、時代が変わってもそう簡単に変わるものではないといえます。その点、現代まで引き継がれている百種類以上にのぼる小絵馬は、柳田がいうことの傍証となるだけのものを備えているように思えます。