平成14年11月19日(火)~平成15年1月19日(日)
1 博多帰帆 (博多八景図 原三信資料より以下同じ) 2 横岳晩鐘 3 名嶋夕照 4 箱崎晴嵐 5 荒津夜雨 6 竃山暮雪/奈多落雁 7 若杉秋月 |
「博多八景(はかたはっけい)」という言葉をご存知でしょうか。「近江(おうみ)八景」や「金沢(かなざわ)八景」は知っているけれども、「博多八景」という言葉は聞いたことがないという人が多いと思います。「博多八景」は鎌倉時代末期、聖福寺(しょうふくじ)の禅僧鉄庵道生(てつあんどうしょう)が博多の8つの風景を七言絶句(しちごんぜっく)の漢詩に詠んだのが始まりです。中国の北宋時代に長江中流の洞庭湖(どうていこ)周辺の景色を詠んだ「湘瀟(しょうしょう)八景」(参考1)にならい、日本で最初に八景をよんだものです。その後、江戸時代には「博多八景」と題した漢詩や絵画がつくられましたが、今では「博多八景」という言い方を耳にすることはなくなりました。
この展覧会では、場所を特定し季節と時間による風景のうつろいを、漢詩や絵画などで巧みに表現した「博多八景」の世界を時代を追って紹介します。
1 日本最初の八景(中世)
鎌倉時代末期、聖福寺(しょうふくじ)の禅僧鉄庵道生(てつあんどうしょう)は、香椎暮雪(かしいぼせつ)にはじまり、箱崎蚕市(はこざきさんし)、長橋春潮(ながはししゅんちょう)、荘浜泛月(しょうはまはんげつ)、志賀独釣(しかどくちょう)、浦山秋晩(うらやましゅうばん)、一崎松行(いっさきしょうこう)、野古帰帆(のこきはん)の8つの風景を、「博多八景」と題して七言絶句(しちごんぜっく)の漢詩を作っています。中国の北宋時代に長江中流の洞庭湖(どうていこ)周辺の景色を詠んだ「瀟湘(しょうしょう)八景」にならい、博多湾を洞庭湖になぞらえて、日本で最初に八景をよんだもので、後の有名な「近江八景」(参考2)や「金沢八景」(参考3)のさきがけとなったものです。ただし、この時期の博多八景は禅の世界にとどまり、一般に広がることはありませんでした。
2 普及した博多八景(近世)
明和2(1765)年成立の『石城志(せきじょうし)』では、「博多八景」は濡衣夜雨(ぬれぎぬやう)、箱崎晴嵐(はこざきせいらん)、分杉(わけすぎ)(若杉)秋月(しゅうげつ)、奈多落雁(なたらくがん)、博多帰帆(はかたきはん)、横岳晩鐘(よこたけばんしょう)、竃山暮雪(かまどやまぼせつ)、名島夕照(なしませきしょう)のようになっています。鉄庵道生(てつあんどうしょう)の博多八景とは場所も景色もずいぶん異なっています。また、若杉山や竃山のように太宰府周辺の山々をも取り入れ、江戸時代の「博多八景」の世界は空間的に広がっています。種々の「博多八景」と題した漢詩や絵画(写真1~7)がつくられ、さらに「博多十景」(参考4)なども作られるようになり、江戸時代には「博多八景」の世界は人々に広く普及していったように思われます。
3 近代化された風景観(近代~現代)
近代では、「博多八景」の風景の変貌もあって、懐古(かいこ)趣味として顧みられることはあっても、「博多八景」の新たな作品が作られることはありませんでした。それよりも近代化された都市の風景として、博多駅や博多港、九州大学などの近代的建物とその風景が新しい観光名所「福岡百景」などとして、絵葉書や写真などで盛んに宣伝されるようになりました。そして今ではもう「博多八景」という言い方を耳にすることはなくなりました。季節と時間を特定した風景から、その空間の色や音までも感じとり、景色を愛(め)でる余裕は失われてしまったのでしょうか。
(林 文理)