平成15年3月4日(火)~4月20日(日)
番付「よつやかいだん」 |
現在、演劇といえば舞台、舞台といえば劇場、と連想されますが、実は今から140年くらい前の、明治の世を迎える頃、博多には常設の芝居小屋や劇場はありませんでした。その頃の芝居は、寺社の境内や河原、町はずれの空き地などに臨時の小屋を建てて公演されるのが一般的でした。櫛田神社(くしだじんじゃ)やその北側にあった大乗寺(だいじょうじ)(旧冷泉(れいぜん)小学校付近)では歌舞伎(かぶき)や浄瑠璃(じょうるり)が上演され、また博多の東を流れる御笠川(みかさがわ)(石堂川(いしどうかわ))に架かる西門橋(さいもんばし)を渡った松原や、西の那珂川(なかがわ)を渡った中洲の河原にも小屋が建ちました。
明治初期になって最初に常設の芝居小屋ができたのは西門と中洲でした。西門、正確には金屋小路(かなやしょうじ)(現在の博多区御供所町(ごくしょまち)付近)の教楽舎(きょうらくしゃ)と、東中洲の永楽舎(えいらくしゃ)です。永楽舎は明治36(1903)年明治座となり、近辺に相次いで誕生した常設芝居小屋とともに、東中洲の歓楽街化を推進しました。大正から昭和初期にかけて映画が上映されるようになると、映画は演劇とともに市民の娯楽の中心となっていきました。本展では近代の博多での演劇のお話を集めてみました。芸どころ博多のルーツをたどってみませんか。
1 大乗寺芝居
―寺社境内での芝居興行―
明治初年まで、福岡・博多には常設の芝居小屋はなく、芝居は仮設の小屋を建てて上演されました。櫛田神社の北側、旧冷泉小学校の場所(博多区上川端町(かみかわばたまち))にあった大乗寺では、しばしば仮設の芝居小屋が建てられました。ここで催された芝居を「大乗寺芝居」といいました。櫛田神社の境内でも相撲興行(すもうこうぎょう)や、仮設小屋での芝居が開催されました。
2 西門と中洲
―「河原」での芝居―
大乗寺や櫛田神社とともに、仮設小屋での芝居が上演された場所に、西門と中洲があります。御笠川に架かる西門橋を渡ったところの松原(現在の博多区千代(ちよ)2丁目付近)で行われた芝居を「西門芝居」といいました。また、博多川を渡った中洲中島町(なかすなかしままち)の北側の浜新地(はましんち)でも相撲興行や芝居が行われました。
3 教楽舎と永楽舎
―芝居小屋・劇場の誕生―
明治十年頃には芝居小屋に名前が付けられるようになりました。西門の芝居小屋は「教楽舎」、櫛田神社の小屋は「聚観舎(しゅうかんしゃ)」と呼ばれました。教楽舎の名前は明治16(1883)年に金屋小路(現在の博多区御供所町付近)に新築された常設芝居小屋「教楽社」に引き継がれました。また明治7年中洲に常設の「永楽舎(社)」が建てられました。こうして博多に劇場が生まれました。
4 博多小女郎浪枕
―博多を舞台にした芝居―
福岡・博多を舞台にした芝居も作られました。その代表作が「博多小女郎浪枕(はかたこじょろうなみまくら)」です。近松門左衛門作のこの物語は、京の商人惣七(そうしち)が、商用で乗った船が海賊毛剃九右衛門(けぞりきゅうえもん)の船だったため、その手下となるという筋で、博多の芸妓小女郎が登場します。また、福岡藩2代藩主黒田忠之(くろだただゆき)の時に起きた「黒田騒動(くろだそうどう)」を題材にした芝居も作られました。
5 川上音二郎
―博多が生んだ演劇家―
元治元(1864)年博多商人の家に生まれた川上音二郎(かわかみおとじろう)は、日本の近代演劇史に大きな足跡をのこした人物です。はじめ落語家を目指していた音二郎は、政治や社会を批判した「壮士芝居(そうししばい)」で頭角を現し、明治24(1891)年頃「オッペケペー節」で一世を風靡(ふうび)します。その後2回の欧米巡業を経て、演劇改良を図ろうとしました。妻貞奴(さだやっこ)も舞台に立ち、「女優」となりました。
6 大博劇場
―映画との拮抗―
明治36年中洲永楽社の跡地に明治座が建てられました。教楽社は明治40年解体され、東公園に移転して「博多座」となりました。そして大正9(1920)年12月には、上東町(現在の博多区上呉服町)に本格的な劇場「大博劇場」がオープンしました。大正から昭和初期にかけて映画が上映されるようになると、映画は演劇とともに市民の娯楽の中心となっていきました。
(野口 文)