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No.221

歴史展示室

広告 -福岡の引札-

平成15年4月22日(火)~6月15日(日)

 引札(ひきふだ)は、店や商品の宣伝、開店や売出しの告知のために配られたチラシです。江戸時代の中頃、大都市の商店は店に掲げる看板やのれんの他に、得意先に配る引札をつくるようになりました。そして、明治時代になると、地方の町でもさかんに引札がつくられるようになりました。テレビやラジオがない時代、引札は、店の周辺以外で展開させることのできる重要な宣伝の手段でした。 ポスターのように壁などに貼るものを「絵ビラ」と区別することがありますが、今回の展示ではすべて引札とよぶことにします。


引札のつくり方


砂糖卸商 栗原亀次郎の引札

明治時代に地方の商店が引札をつくることができるようになった大きな要因として、引札をつくるコストが下がったことがあげられます。印刷技術が進み、綺麗な引札を安価に大量に印刷することができるようになったのです。 見本帳から広告主が好みの絵柄を撰び、そこに商店の名前や住所などを刷り込む引札のつくり方を「名入(ない)れ」といいます。このイージーオーダー方式の採用によって、大きな資本をもたない地方の商店も、引札をつくることができるようになったのです。「名入れ」の方式で、全国の商店が引札をつくったことにより、離れた土地、異なる業種の店が、全く同じ絵柄の引札をそれぞれの得意先に配ることも、珍しくはありませんでした。


「掛値なし」の商売


山際商店の引札

 「現金安売掛値(げんきんやすうりかけね)なし」これは、天和3(1683)年に江戸の越後屋(えちごや)(三越の前身)が配ったといわれる引札に印刷された宣伝文句です。当時、越後屋のような大店(おおだな)の商売は、年末に1年分の払いをまとめてする「掛売(かけう)り」でした。それを現金取引にするというのです。現金取引にすることで、今で言うところの「金利手数料」が省かれて安売りが可能になります。「掛値なし」は、交渉次第で値引きされる掛値が一切なく、正札(しょうふだ)=値札通りの価格で商品を売買することを意味します。「現金安売掛値なし」とは、現金取引で金利手数料無料、「掛値」がないことでさらに安売りという宣伝文句だったのです。これは、実に画期的な商法でした。 明治時代の引札にも「掛値なし」「正札附(しょうふだつき)」という宣伝文句が見られます。越後屋の引札から2世紀たっても、まだこうした文句が安売りを示すことばたり得たわけです。今からほぼ100年前の明治時代の日本では、正札のない、「掛値」がある商売をしている店が多かったのです。


めでたい絵柄と商売繁盛

 引札は、年末年始のあいさつの品として得意先に配られることも多かったため、めでたい絵柄のものが多くなっています。恵比寿・大黒、鶴・亀、福助、松竹梅などが代表的なものでしょう。中には、恵比寿が藻を刈る様子を描いて「儲かる」(藻を刈る)、5匹の鯉が急流をのぼる姿を描いて「御利益」(5鯉躍)などの語呂合わせが隠された、遊び心があるものもあります。


引札の主役たち

 引札の絵柄は、配られた人が手元におきたくなるようなものが好ましかったはずです。誰もが知っている有名な物語の名場面、日本三景などの有名な景色などもあります。着飾った女性や可愛らしい子どもなども、好まれた絵柄のようです。 また、年末年始に配られたことに関係して、略暦を刷り込んだ引札もたくさんあります。現在、企業がカレンダーを顧客に配るのと同じ感覚だったのでしょう。他にも、郵便料金表や汽車の時刻表など、目に付くところにあると便利な情報を印刷した引札もあります。


時代を映す絵柄

 引札がさかんにつくられた明治時代の世相を映す絵柄も多く見られます。中でも多いのは、汽車や電話、郵便、洋装の男女など、「文明開化」を感じさせるものです。ほぼ全国的に郵便網が整えられたのは明治5(1872)年、博多駅(当時は停車場)が開業したのは明治22年のことです。
 写真の山際商店の引札は、客で賑わう店先を描いたものです。のれんの中央には「正札附」の文字が見えます。そして、人力車とそれを引く車夫の後ろ姿も見えます。人力車は、明治時代の発明品です。発明者のうちの一人は、和泉要助(いずみようすけ)(1829~1900)という元福岡藩士です。藩主の参勤交代にしたがって江戸へ行き、幕末の横浜で外国人の馬車を見て、人力車発明のヒントを得たといわれています。和泉らが東京で人力車の営業許可を得たのは明治3年のことでした。また、この引札には電話番号が刷り込まれています。福岡で電話交換局が開業したのは、明治32年5月のことです。
 磯野鋳造所の引札は作業場の俯瞰図になっていますが、画面下方には、店の前の道を行き交う人々が描かれています。よく見ると、荷車や人力車のほかに、前車輪が大きい自転車に乗った人がいることに気付きます。これは、オーディナリー型という1870年頃にイギリスで開発された自転車です。この自転車が日本に伝わった正確な時期は分かりませんが、日本では明治20年代に流行したようです。自転車で世界一周の途中、明治19年に長崎から横浜まで旅をした米国青年が乗っていたのはこのオーディナリー型でした。この青年のことは、日本でも新聞にとりあげられていましたから、福岡の人々もその噂を耳にしていたことでしょう。中には、その姿を見た人もいたかもしれません。当時は、自転車は非常に高価な最新の乗り物でした。引札の中には、人々が憧れるようなモノも描かれているのです。
 他にも、日露戦争(1904~05)の頃には、祝勝ムードの絵柄や海戦の様子なども引札に使われています。


全国区の福岡発ブランド


磯野鋳造所の引札


復古堂の引札

 明治時代、全国規模の博覧会は、店と商品の知名度をあげる絶好の機会でした。中でも、明治時代に東京・京都・大阪で合計5回開かれた内国勧業博覧会は、最も大規模な博覧会でした。引札には、こうした博覧会などでの受賞歴が刷り込まれていることがあります。明治10(1877)年に開催された第1回内国勧業博覧会に福岡から出品し、褒状を受けた人物の中に、磯野七平と河原田平助がいます。
 磯野七平(いそのしちへい)(1853~97)は、明治26年から約2年間、第2代福岡市長を務めた人物です。磯野家は、代々鋳造行を営んでいましたが、七平の時代には、磯野式と呼ばれた馬にひかせる犂(すき)で有名でした。博覧会での受賞や、北部九州の農法が全国に普及したことにより、「磯野の犂」は、全国にその名が知られるようになったそうです。
 河原田平助(かわはらだへいすけ)の復古堂(ふっこどう)は、江戸時代から続く筆や紙などを扱う店です。明治時代には、筆で数々の博覧会での受賞歴があります。平助筆は看板商品で、類似品が出回るほどだったといいます。類似品と区別するために、平助の顔写真を筆にラベルとして貼ったそうです。

(太田暁子)

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(入館は17時まで)
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休館日
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(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
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