平成15年6月17日(火)~7月27日(日)
31 ポスター 「応召だ 戦地へ送れ 銅と鉄」 |
福岡市博物館では毎年6月19日の「福岡大空襲(ふくおかだいくうしゅう)の日」の前後に、館蔵の戦時資料を展示しています。この展示では、昭和6(1931)年の満州事変(まんしゅうじへん)から昭和20年の敗戦までの足かけ15年にわたる、いわゆる「15年戦争」の時期(戦時期)に、人々がどのように暮らし、戦争をどのように感じていたかを、毎年内容を変えて紹介しています。
12回目となる今年は、「日の丸」に関するものを集めてみました。
日の丸は平成11(1999)年に法律で日本の国旗と定められましたが、それ以前から事実上の国旗として、日本国を象徴するものでした。特に戦時期には、ポスターなどにも日の丸が多く使われました。また、戦地へ赴(おもむ)く兵士たちは、手柄をたて、無事に帰還することを祈る、寄せ書きした日の丸の旗を持って行きました。このように戦時期に日の丸が果たした役割が大きかっただけに、戦後は日の丸を国旗とは認められないという考え方も強くありました。
日の丸に託されたさまざまな想いをふりかえり、あらためて戦争について考えるきっかけにしたいと思います。
1 武士が好んだ文様
日の丸はもともと、太陽を象(かたど)った文様のひとつでした。日の丸紋は、平安時代末の源氏と平氏の合戦の頃より武士に好まれ、江戸時代には幕府の船の旗や幟(のぼり)に使われました。白地に赤色だけでなく、紺地に朱色や金色の日の丸が描かれたり、円がひとつでなく、3個や5個描かれたりすることもありました。光線を描いた旭日(きょくじつ)・旭光(きょっこう)などの日足(ひあし)紋も日の丸の仲間といえるものです。
2 船に付けた外交上の印
幕末に外国船が来航するようになると日本の船に印が必要となり、幕府以外の船にも日の丸の幟を付けるようになりました。これが国際的に日の丸を日本の国旗として使用することにつながっていきました。先ず、明治3(1870)年に政府が日の丸を商船旗として定め、その直後に軍艦旗としても制規定されて、事実上の国旗と見なされるようになりました。
3 菊花紋
現在日の丸とならんで「日本」を象徴するのが「菊の御紋」です。これは後鳥羽(ごとば)天皇が好んだ文様で、それが後に皇室の紋章となったといわれています。現在世界各国は国旗の他に、共和国では国章、王国では王章・女王章が決められており、日本は十六葉八重表菊形を「皇章」と定めています。日本政府が発行するパスポートにも菊花紋が描かれています。
4 お祝いの気持ち
明治時代以降政府は、祝日や陸軍記念日(3月10日)・海軍記念日(5月27日)には日の丸を掲揚するよう指示しました。ここから、カレンダーの祝日のところに日の丸の模様を入れたり、祝日を「旗日」という言い方が生まれたりしました。これらは、私的なお祝いの時に使われることはなく、公的な場合に限られていました。
5 日本の存在の印
日の丸は、法律では「国旗」とは規定されていませんでしたが、実質的に国旗として扱われていました。そのため日の丸は、その人や団体が「日本」に帰属することを示す印でもありました。特に15年戦争の時期には、兵士のシルエットに日の丸が描かれていれば、それは日本軍の兵士だということを示していました。さらに、日の丸の意匠(いしょう)だけで、そこに日本軍が存在することが表現されるようになりました。
6 戦勝を祈願し、兵士を守る
15年戦争が始まると、平時よりも多くの男性が兵として召集されました。入隊する人を見送る時には、多くの日の丸の小旗が振られました。また、知人が日の丸に寄せ書きをしたものを戦地へ持参する兵士もいました。これらの日の丸には、戦争に勝つことを願うとともに、入隊した人が無事に帰還するよう祈る気持ちが込められていました。
7 愛国心の表現
戦争が長期化すると、人々は、日の丸のもとに勝利を祈ることになじんでいきました。やがて、日の丸自体が日本国民の愛国心の顕(あらわ)れとみなされるようになりました。また、日本が植民地や支配地を広げていくにつれ、日の丸は、そこに住む人々が日本に帰属する人であるということだけでなく、「日本」を愛する気持ち、すなわち愛国心を持っていると表現するものとなりました。
(野口 文)