平成15年11月26日(水)~平成16年1月25日(日)
図2 『筑前名所図会』(史料2) |
福岡・佐賀両県の境をなす背振山(せふりさん)。標高1,055mを数え、玄界灘(げんかいなだ)に面した山々で最も高い山です。背振山地の山容は飛龍が背を振るった姿にたとえられ、往時は背振千坊(せふりせんぼう)と称される程の坊舎が栄えていました。本展覧会では、背振山に関する古文書、絵画資料等を通して、背振山の歴史と文化の一端を紹介します。
1 背振山の信仰
図1 銅製経筒(史料6) |
鎌倉時代後期に作られた「背振山霊験(せふりさんれいげん)」という宴曲(えんきょく)(早歌(そうか))には、西は遙かに松浦潟(まつらがた)から、東は筥崎(はこざき)の松や磯路をめぐる志賀島(しかのしま)まで、山上から遠望できる玄界灘沿岸の風景が謡い込まれています。玄界灘からよく見える背振山は、博多湾に入港する船にとって目印となり、中国に渡海する人々の信仰を集め、遣唐使に随行した空海(くうかい)(図4)・最澄(さいちょう)・円仁(えんにん)・円珍(えんちん)や、平安時代末期に二度入宋した栄西(ようさい)など、多くの人々が入山して航海の安全を祈願したと伝えられます。霊仙寺遺跡(佐賀県神埼郡東脊振村)から出土した康治(こうじ)元年(1142)11月16日付銅製経筒(きょうづつ)(図1)は、平安時代、背振山で法華経(ほけきょう)の書写と埋納(まいのう)が盛んであったことを示しています。福満寺(ふくまんじ)所蔵の大般若経(だいはんにゃきょう)には建武(けんむ)2年(1335)~5年に筑前国原田庄枝口宮(ちくぜんのくにはらだのしょうえだぐちぐう)や怡土庄吉井村白山宮(いとのしょうよしいむらはくさんぐう)で書写された経巻が54巻含まれています。近年発見されたもので初公開の史料です。背振山地一帯に展開した宗教活動の一端を示しています。現在、佐賀県側の山頂に水神の弁才天(べんざいてん)と山神の乙護法(おとごほう)を祀る脊振神社上宮が鎮座し、他にも修学院(しゅうがくいん)や霊仙寺跡(りょうせんじあと)等、ゆかりの史跡が知られていますが、戦国時代以前には福岡県側にも多くの坊舎が広がり、往時は山の南北にまたがる一大霊場であったのです。
2 中世の背振山
図4 弘法大師像(史料4) |
背振山の初見は『日本三代実録(にほんさんだいじつろく)』貞観(じょうかん)12年(870)5月29日条に、筑前国正六位上の背布利神(せふりしん)が従五位下に昇叙された記事です。かつて頂上には背振山を統括する東門寺(とうもんじ)がありました。「筑前国早良郡背振山東門寺古証文(さわらぐんせふりさんとうもんじこしょうもん)」全12通は、小笠木(おかさぎ)村(現福岡市早良区)の専道(せんどう)(下級の荘官の一つ)を務めた結城(ゆうき)氏に伝来した古文書です。「東門寺古証文」から、東門寺の活動と、早良平野の奥、脇山地区に広がっていた背振山領の領有状況を知ることができます。北部九州における数少ない中世村落史料としても貴重なものです。これらの史料は、次のコーナーで紹介する背振山国境争いの際、福岡藩側の証拠文書として利用されています。
図5 隆舜売券(史料11) | 図6 東門寺政所坊請取状(紙背) (史料19) |
3 福岡・佐賀両藩の国境争い
江戸時代、板屋(いたや)・脇山(わきやま)・椎原(しいば)三村(現福岡市早良区)と肥前(ひぜん)の久保山(くぼやま)村(現佐賀県脊振村)の農民が境界争いを起こしました。福岡藩側は「東門寺古証文」や古い記録に「筑前国背振山」と記されていることを根拠に山頂から南の方まで筑前国内であることを主張しました。しかし、元禄(げんろく)6年(1693)、幕府の裁定は、正保(しょうほう)4年(1647)の肥前側の国絵図に筑前国絵図には記載されない背振弁財天が見えること、佐賀藩主鍋島(なべしま)氏より社領が寄進されていることにより、佐賀藩側の主張を容れ、尾根筋を両国の境としました。これが現在の県境に引き継がれています。
(堀本一繁)