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No.234

黒田記念室

近代福岡交通史

平成16年1月27日(火)~3月28日(日)

明治生まれの乗り物


祝部至善「辻待ち車、乗合馬車」

 江戸が東京になった頃、人力車という新しい乗り物が登場しました。その発明については諸説がありますが、福岡県出身の和泉要助(いずみようすけ)(1829~1900)らが、横浜の外国人の馬車をヒントに発明したとする説がよく知られています。明治3(1870)年、和泉らは東京で人力車営業の許可を得ました。木と鉄でできた車輪(ゴム製タイヤが使われるようになるのは明治40年代以降)で、舗装されていない道を走る人力車の乗り心地は決して良くなかったはずです。しかし、人力車は瞬く間に日本中に普及しました。人力車は小回りがきき、狭い道が多い日本の道路事情に合っていたこと、人力車をひく車夫になるには、資本も特別な技術も必要なかったこと等が、短期間に人力車が普及した要因でしょう。
 近代化の象徴ともいえる交通機関は、なんといっても鉄道です。明治5年の新橋-横浜間開業に始まり、明治22年には東海道本線が全線開通するなど、軍事上の要請もあり、線路は急速に延びていきました。
 乗合馬車や鉄道馬車も明治時代の交通手段です。横浜と東京を結ぶ乗合馬車は、明治の初めから走っていました。道路に敷いた線路上を馬車が走る鉄道馬車も早くから計画されましたが、線路を敷くにはある程度以上の道幅が必要なため、なかなか実現しませんでした。最初の鉄道馬車は、明治15五年に新橋-日本橋間で開業しました。これも、明治5年の大火後の銀座通りの拡幅整備があったからこそ実現したのです。レンガ造の建物がならぶ銀座を鉄道馬車が走る様子は、当時の錦絵にも描かれ、文明開化を象徴する光景の一つでした。しかし、明治28年に京都で路面電車が開業し、明治30年代になると東京でも、馬車が走っていた線路の上を電車が走り始めました。街に高級自動車が現れるのは、明治時代も終わりに近づいた頃、タクシーの営業開始は大正時代に入ってからのことです。


鉄道開業以前の福岡

 鉄道も路面電車もなかった明治時代の前半、福岡の町を走っていたのは人力車や馬車でした。そして、もちろん町を行き交う人々の大半は徒歩でした。明治の中頃には福岡の町を1,000台以上の人力車が走っていたようです。
 福岡と郊外を結ぶためには乗合馬車が走っていました。西中島橋を西へ渡った福岡橋口町(中央区天神 赤煉瓦文化館のあたり)に町と町の距離を測る際の基準点となる里程元標(りていげんひょう)があり、そこが乗合馬車の発着所になっていました。東は箱崎方面行、西は姪浜(めいのはま)、前原(まえばる)など糸島方面行が運行していました。しかし、明治37~38(1904~05)年の日露戦争の際に、多くの馬が軍馬として徴発され、乗合馬車はすたれていったということです。


鉄道の開業と汽車の旅

 明治22(1889)年、博多駅が開業しました。開業当時、博多から久留米(筑後川北岸の仮駅)までを一日に上り下り3本ずつ、片道1時間23分で結びました。「博多から二日市までの汽車賃往復22銭(下等客車の料金、中等は2倍、上等は3倍)、二日市駅からの人力車賃往復14銭の合計36銭で、日帰りでゆっくり宰府(さいふ)参りができる」という新聞記事が掲載されたほど、汽車のスピードは驚きでした。しかし、明治20年前後というと、かけそば1杯が1銭という時代ですから、太宰府まで往復の交通費が36銭というのは、現在の感覚からすると、非常に高く感じられます。


祝部至善「五分鈴」

 現在の福岡には「博多時間」などといって、会合などが時間どおりに始まらないことを容認するような雰囲気があります。しかし、当然のことながら、鉄道は時間どおりに運行します。明治時代の博多駅では、汽車の発車5分前に、駅前広場まで駅員が鈴を鳴らしながら知らせてまわるという光景が見られたそうです。5分前の鈴なので「五分鈴(ごぶんりん)」と呼ばれていました。
 鉄道馬車の計画は福岡にもありましたが、狭い道路に鉄道馬車を通したりしたら、かえって交通の妨げになるとして許可されませんでした。明治42(1909)年にやっと博多馬車軌道株式会社が、吉塚~千代町~築港~橋口という路線で許可を得ますが、すでに時は電車の時代。この路線の権利は買収され、明治44年開業の博多電気軌道(路面電車の循環線)の一部になり、福岡の市街地を鉄道馬車が走ることはありませんでした。
 福岡近郊で、鉄道馬車が走った例として、九州鉄道(JR九州)二日市駅から太宰府天満宮に延びていた太宰府馬車鉄道(明治35年開業)と、福間(ふくま)駅から宮地嶽(みやじだけ)神社前の宮司(みやじ)を通り津屋崎(つやざき)に延びていた津屋崎軌道(明治41年開業)があります。どちらも、最寄りの鉄道の駅から参拝客を運ぶ路線でした。太宰府馬車鉄道は、大正2(1913)年には動力が馬から蒸気機関へ、昭和2(1927)年には電化されました。津屋崎の馬車鉄道は、博多湾鉄道汽船に買収された後も営業を続け、昭和14年に廃止されました。


路面電車と自動車の登場


明治42年落成の二代目博多駅

 明治43(1910)年、福岡では、第13回九州沖縄八県連合共進会が開催されました。この共進会の開幕直前に福岡でも路面電車が開業しました。福博電気軌道(貫線)です。東の大学前から西公園下までの東西に延びる路線と、それに呉服町でつながる博多駅が起点の路線です。電車の開業前は、電車を利用するのは、汽車に乗って共進会見物にやってくる客だけだろうと、人力車側は考えていたようです。しかし、いざ開業してみると、物珍しさも手伝って、路面電車は大繁盛。福博電気軌道開業からの一年間で、福岡では約300人の車夫が廃業に追い込まれたと、当時の新聞は伝えています。
 日本で最初のタクシー会社が東京で開業した翌年の大正2(1913)年、福岡で最初のタクシー会社・中島自動車商会がフォード社製の自動車を購入して営業を始めました。大正時代に、日本でタクシー業が誕生したのは、フォード社が、1909年にT型という他に比べて圧倒的に安い自動車を発売し、世界的に自動車の数が一気に増えたという背景があってのことです。
 とはいうものの、大正時代は、まだまだ自動車は珍しい乗り物でした。大正8年に福岡で陸軍特別大演習が行われた際には、福岡で調達できる自動車は10台にもみたず、九州全域はもちろん、広島からも集めてやっと32台を揃えたそうです。しかし、昭和2(1927)年に現在の大濠公園で東亜勧業博覧会が開催された時には、博多駅前に客待ちをするタクシーの姿がありました。
 路面電車とタクシーの登場で、人力車は大打撃を受けました。それは、博多駅構内で客待ちをする営業が許可されている人力車の数にはっきりとあらわれています。路面電車開業の直前には100台の営業許可が与えられていましたが、大正時代には85台、大正末年に65台、昭和4年3月に50台、同年8月には30台というように減少しています。20年足らずの間に、駅前の人力車は3分の1以下になったのです。 
(太田暁子)

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