平成16年6月8日(火)~7月11日(日)
はじめに
ポスター「貯蓄で築け新東亜」 |
今年もまた6月19日がやってきます。昭和20(1945)年のこの日の夜半、福岡市はアメリカ軍の空襲により、大きな被害を受けました。福岡市博物館では平成3年より毎年、6月19日を中心に「戦争とわたしたちのくらし」と題する展覧会を開催し、戦時期の人々のくらしはどのように営まれたかという点を、さまざまな観点から紹介しています。
13回目となる今回は、戦時期の預貯金と戦時債券の購入のあり方を中心に展示します。
昭和12年に日中戦争が始まると、多額の戦費が必要となり、それを補うために貯蓄が奨励され、あわせて戦時債券の購入が割り当てられました。国を挙げての貯蓄奨励運動の結果、昭和15年には総貯蓄額が100億円を達成、17年には500億円を超えるまでになりました。わたしたちは戦時中に物資が不足し、人々のくらしが窮乏したことをすでに知っています。そのことと考え合わせると、戦時期に国民が求められた貯蓄額の大きさにあらためて驚かされることでしょう。
1 国民貯蓄運動
昭和12年に日中戦争が始まると、飛躍的に増加した戦費の一部に、国民が銀行や郵便局に預けた預貯金を充てることが計画されました。そのため貯金が奨励され、昭和13年には、国民貯蓄運動が開始されました。この運動は昭和16年に制定された「国民貯蓄法」という法律に基づいて、さらに組織的に展開されました。国民は住んでいる町村や勤めている職場、通っている学校などで結成された国民貯蓄組合の構成員となり、それぞれの組合で貯金をしなければなりませんでした。
2 貯蓄報国
国民貯蓄組合等による貯金奨励運動と並行して、貯蓄が「お国のため」になると宣伝するポスターなども作成されました。こうした宣伝物では、貯蓄によって国民が個々人経済的に豊かになるのと同時に国家も強くなる、と説明しました。貯蓄は「報国(国の恩に報いる、という意)」に当たり、さらには「新東亜(新しい東アジアの意、大東亜共栄圏をさす)」を建設することにつながると説明されました。
3 100億貯蓄から500億貯蓄へ
貯蓄が奨励された結果、昭和14年度中の貯蓄額が100億円を達成すると、引き続き15年度の年間貯蓄目標額は120億円となりました。年に120億円貯蓄するということは、すべての日本国民が120円ずつ貯金するという計算になります。昭和15年頃30歳代の小学校教員の月平均給与がおよそ70円くらいであったことを考えると、夫婦と子ども2人の家庭であれば、4人分の貯蓄目標額480円は、約7ヶ月分の給与に相当する額となり、大変高額であったことがわかります。
4 軍事公債の発行
昭和12年に日中戦争がはじまると、多額の戦費が予想され、戦費の一部に充てるための国債(軍事公債)が発行されました。特に戦費調達のための法律「臨時資金調整法」が施行されると、「貯蓄債券」や「報国債券」という名前の国債が発行されました。国民は貯金を奨励された上に、さらに国債の購入も求められることとなりました。昭和16年12月に太平洋戦争が始まると、より少額の「戦時貯蓄債券」や「戦時報国債券」が発行されました。昭和17年軍事公債の売上げは、7億7600万円に上りました。
5 国債貯金制度
昭和17年には国民の総貯蓄額は500億円を超え、貯蓄債券・報国債券の売上げも7億7000万円余に上りましたが、その後は債券売上げも徐々に鈍ってきました。政府は、昭和18年に「国債貯金」を創設しました。この貯金制度は、預貯金の払い戻しが、現金ではなく、国債で行われるというものでした。6月に銀行等で導入され、10月からは郵便局でも取り扱いが始まりました。
6 貯金の実際 藤野家の場合
福岡市博物館が平成15(2003)年度に寄贈を受けた藤野大助資料には、積立貯金通帳が4冊含まれています。そのうち、大助氏の名義で昭和15年2月から18年3月まで払い込まれた、通帳番号「てにり23596」の貯金は、少なくとも4件の戦時債券の購入に使われました。その状況は、通帳番号が記載された証券保管証から明らかです。これらの戦時債券は郵便局において無料で保管され、藤野氏の手に渡ることはありませんでした。
(野口 文)