平成17年1月12日(水)~3月21日(月)
福岡市博物館を訪ねられたお客さんに、この埋立地で1989年にアジア・太平洋博覧会(通称よかトピア)が開かれましたが、埋立て前は百道(ももち)の海水浴場としてにぎわった所です、また古くは蒙古襲来の際、この海岸から元軍の主力が上陸し、南の 祖原山(そはらやま)に本陣を構えた歴史的な場所です、などと説明します。
しかし、むかしの海岸線は道路に変わり、新しく都市高速道路が走り、高いビルによって博多湾が見えない現在の景観を見た大半の人は、この説明に驚き、簡単には納得されません。それほど百道浜は変貌しているのです。
この展覧会では、博物館の足もと、百道浜の移り変わりをふりかえってみようと思います。
1 百道の砂丘-古代・中世
1. 百道海水浴場 大正 12(1923)年 |
北は博多湾に面し、東は 樋 井川(ひいがわ)、西は室見川(むろみがわ)に挟まれた百道の地には、西新町(にしじんまち)遺跡・ 藤崎(ふじさき)遺跡の発掘によって、弥生から古墳時代にかけて古砂丘上に集落や墓地がつくられていたことがわかっています。鎌倉時代の文永11(1274)年には、蒙古軍がこの 百道浜(ももちはま)の海岸から上陸し、 祖 原山(そはらやま)に本陣を置き、激しい合戦が行われました。その後再度の襲来に備えて、 石 築地 (いしついじ)(元寇 防塁(げんこうぼうるい)、写真2)が築かれましたが、当時は人の住むことがまれな、白砂の浜辺であったと考えられます。
2 百道松原と西新町-近 世
2. 西新の元寇防塁 |
江戸時代に入り、元和4 (1618)年、初代福岡藩主 黒田 長政(くろだながまさ)は松の植林を命じ、百道の砂浜は博多湾の潮風をさえぎる美しい松原にかわっていきました。寛文6(1666)年、3代藩主 光之(みつゆき)は、室見川上流橋本村にあった 紅葉 八幡宮(もみじはちまんぐう)(現在は高取に所在)を樋井川べりに移しました。八幡宮の門前には人家が建ちはじめ、東の西町から続く 唐津 街道(からつかいどう)の新しい町場として栄え、後に西新町と呼ばれるようになりました。また、八幡宮の裏の「 後 浜(うしろはま)」は、藩の砲術習練の場としても使用されていました。
3 学問の町と海水浴場-近 代
明治から大正時代にかけて、新たに道路や鉄道がつくられ、百道松原に 修猷館(しゅうゆうかん)(明治33年・1900)や 西南 学院(せいなんがくいん)(大正7年・1918)が移転してきてからは、西新町は学問の町という性格を持つようになりました。また、百道松原の海岸は夏に海の家が立ち並び、昭和30年代まで市民の海水浴場(写真1)としてにぎわっていました。さらに大正2(1913)年、福岡監獄署(のち福岡刑務所)が 須崎(すざき)から 藤崎(ふじさき)に移ってきて、昭和40(1965)年に 宇美(うみ)に移転するまでの間、広大な敷地を占めていました。
4 埋立てと情報の発信地-現 代
第2次大戦後、宅地開発が進み、百道の松原は次第に姿を消し、浜辺の海水浴場もなくなっていきました。昭和57(1982)年から海岸の埋立てがはじまり、百道浜の景観は一変しました。地下鉄や都市高速道路などが整備され、平成元(1989)年にはアジア・太平洋博覧会が開催されました。博覧会の跡地には福岡市博物館や総合図書館が開館し、高層マンションが建ち、さらにテレビ局やIT関連会社が集中し、現在は新しい情報文化の発信地の様相を呈しています。
(林 文 理)