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No.260

歴史展示室

戦争とわたしたちのくらし14

平成17年5月24日(火)~7月18日(日・祝)


陸軍用の食器

 今年もまた6月19日がやってきます。昭和20(1945)年のこの日の夜半、福岡市はアメリカ軍の空襲により、大きな被害を受けました。福岡市博物館では平成3年より毎年6月19日前後に部門別展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、館蔵の戦時資料をもとに、戦時期の人々のくらしはどのように営まれたかという点を、さまざまな観点から紹介してきました。 14回目となる今回は、戦時期の食に関する資料を中心に展示します。 米の消費を抑える政策は、昭和十年代半ばに生まれた「国民精神総動員運動」に連動して始まりました。その後配給制度が導入され、お金があっても、欲しい物を好きなだけ手にいれることができなくなり、戦争末期から終戦後は、食糧生産(しょくりょうせいさん)が落ち込み、食べ物を入手することが困難な時期が続きました。 終戦から60年が過ぎ、豊富な食糧に恵まれた今日、「食」を通して戦争について考えていただくきっかけになれば幸いです。


昭和初期の食 バラエティに富んだ都市の食

 昭和初期の農村では、日常の食事は米に麦を2~3割まぜた麦飯でした。麦を混ぜず白米だけを炊(た)く白飯は、正月や行事の日の「ハレ」の食事に限られていました。一方都市部では、白飯を日常的に食べる家もあり、カレーライスやコロッケなどの「洋食」も家庭の食卓に登場していました。しかし主食はパンではなく飯で、一食に飯碗3杯という場合もあったようです。昭和初期の日本人の食生活は米が中心であったと言うことができるでしょう。


節米 米を節約しよう

 昭和初期の日本人の食生活は米が中心でしたが、すでに大正時代から米不足状態が続き、海外から米を輸入しなければならない状況でした。 さらに昭和12年7月中国との戦争(日中戦争)に入ると、国民の戦争に対する士気を高めるために「贅沢(ぜいたく)は敵」と唱える国民精神総動員運動が始まり、その一環として「節米運動(せつまいうんどう)」がおこりました。昭和15年には週に一度の「節米デー」が定められ、米の使用量を減らすための「節米料理」が紹介されました。


戦地と銃後 兵士と国民をつなぐ「食」

 戦地の前線に対し、後方を「銃後(じゅうご)」と言いますが、戦時期にはこの語が国民を指す言葉として使われました。銃後の国民が戦地の兵士に送る慰問品(いもんひん)の中には、手紙などと一緒に食品も入れられました。また、国民の士気をたかめるために、「忠魂」といった文字や鉄カブトの図柄が入った菓子も作られたこともあります。 軍艦や飛行機、弾丸などを製造する金属の不足を補うため、金属回収が実施されるようになると、家庭で使われていた鍋や釜なども供出(きょうしゅつ)させられ、金属に代わる製品(代用品)が出回りました。この動きは軍にも及び、軍隊で使用された食器類もアルミ製から陶磁器へと変わりました。



「忠魂」と刻まれた菓子型

食の工夫 増産と代用食

  節米が叫ばれるようになると、他の食品を足して増量する方法や、米の代わりに他の食品を使う「代用食」が奨励されました。さらに昭和 17 年に食糧管理法(しょくりょうかんりほう)が制定されると、米は本格的な配給制となり、購入には「米穀通帳」が必要となりました。都市部では空き地を畑にして、野菜類を栽培し、食糧自給を目指すよう指導され、隣組で協同して耕作することもありました。昭和 19 年から 20 年にかけての戦争末期には、配給の品も充分ではなくなり、食糧不足は深刻なものとなりました。都市の住民は、食糧を求めて農村へ買い出しに出かけました。

(野口 文)

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(入館は17時まで)
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休館日
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