平成17年9月27日(火)~12月11日(日)
図1 毘沙門天像(部分) |
仏像には多くの種類があり、固有の働きや姿が決まっています。中でも古代インドの神々に由来する天部(てんぶ)と呼ばれる仏には、仏法を護るため鎧(よろい)に身をかため武器を持つものが含まれます。このような武装した天部の尊像を、一般に神将像(しんしょうぞう)と呼んでいます。
神将像には四天王(してんのう)や十二神将(じゅうにしんしょう)というようにグループを構成するものもあれば、毘沙門天(びしゃもんてん)や韋駄天(いだてん)のような独尊像もあります。また、その働きにはそれぞれ違いがあり、全体の姿や持ち物も一様ではありません。
本展示では、このような神将像の存在に注目し、福岡市とその周辺に残る各種の作品を紹介します。
1、四天王(してんのう)
四天王は、その名のとおり4人で1組の仏法の守護神ですが、元来はそれぞれが独立した古代インドの神であったと考えられています。
しかし、仏教に取り込まれてからは、須弥山(しゅみせん)(世界の中心にそびえ立つとされる巨大な山)【図2】の四方を護る武神と位置づけられ、東に持国天(じこくてん)、南に増長天(ぞうちょうてん)、西に広目天(こうもくてん)、北に多聞天(たもんてん)という配置が決まりました。
このようにして四方守護の役割を得た四天王は、寺院では本尊を中心とする聖域を護るため、仏壇の四方に安置されるのがならわしとなり、日本でも飛鳥時代から造像がおこなわれました。
その姿は中国風の甲冑を着けて足元に邪鬼(じゃき)を踏み、表情は仏法を外敵から護るために激しい怒りをあらわすのが一般的ですが、姿勢や持物(じもつ)は四体それぞれに異なっています。
ところで、時代が降ると、寺院の中門などに四天王中の二天を独立させ二天王像として安置することもおこなわれました。東長寺(とうちょうじ)の山門に安置される二天王像もその一例で、うち持国天像【図3】は作風から平安時代後期に制作されたと考えられます。
また、四天王は千手観音(せんじゅかんのん)に従属する二十八部衆(にじゅうはちぶしゅう)や、大般若経(だいはんにゃきょう)を読誦する人々を護る釈迦十六善神(しゃかじゅうろくぜんじん)の一部として造られることもあります。今回展示した大悲王院(だいひおういん)の四天王像【図4】も二十八部衆の一部で、鎌倉時代末頃に制作されたとみられます。
図2 須弥山図 | 図3 二天王像(持国天) | 図4 四天王像(東方天) |
2、毘沙門天(びしゃもんてん)
四天王は、四人一組で力を発揮する護法神といえますが、その中で北方の多聞天だけは単独で信仰されることがありました。その場合は多聞天ではなく、毘沙門天と呼ばれます。
毘沙門天が単独で信仰された背景には、仏教以前の古代インド社会において財宝・福徳を司る神として、他の三尊よりも抜きんでた人気をもっていたことと関係があるといわれます。
日本でも平安時代以降になると、毘沙門天に対する信仰が高まり、護国あるいは戦勝の神として武士層を中心に重んじられ、また室町時代になると財福神としての側面が強調されて七福神の一人にも加えられました。
毘沙門天の姿は、基本的には他の四天王と同じですが、左右いずれかの手に戟(げき(槍に似た武器))か宝棒(ほうぼう)を持ち、反対側の手に宝塔(ほうとう)を捧げ持つという特徴をもっています。
今回展示した個人蔵の毘沙門天像【図5】もそのひとつで、平安時代後期に制作されたと考えられます。ただ、よく観察すると、腰などに金鎖甲(きんさこう)と呼ばれる鎧の文様【図1】を、彩色ではなく彫刻であらわす点が珍しく、同じ表現は鎌倉時代初期に制作されたと考えられる東林寺(とうりんじ)の毘沙門天像【図6】にもみることができます。
北部九州に残る平安時代後期の神将像には、このような表現をもつものが多く、地域的な造像活動を考えるうえで注目されます。
図5 毘沙門天像 | 図6 毘沙門天像 |