平成18年1月24日(火)~3月26日(日)
江戸屋敷の役割と実態
江戸屋敷は上中下でそれぞれ性格が異なります。
上屋敷は藩の公邸として使用され、参勤交代で江戸にやってきた藩主の正式な住まいとなりました。江戸滞在中は幕府要人との交渉や仲の良い大名との交流が行われ、屋敷内では能や蹴鞠(けまり)が催されました。また、藩主の正妻の住居でもあり、多くの世嗣(せいし)がここで誕生しています。そして、藩主が帰国した後は、上屋敷に詰めている江戸留守居(るすい)が幕府とのパイプ役となり、藩政を担いました。
それに対して、中屋敷は世嗣や家族の住宅として用いられる、半ばプライベートな空間でした。前藩主の夫人や早世した嫡子の夫人が住むことが多かったようで、本光院(ほんこういん)(黒田吉之(よしゆき)夫人、本多忠利(ほんだただとし)息女)や眞含院(しんがんいん)(黒田重政(しげまさ)夫人、島津継豊(しまづつぐとよ)息女)、圭光院(けいこういん)(黒田継高(つぐたか)夫人、黒田吉之息女)らの屋敷がありました。上屋敷が罹災した場合はこの中屋敷が公邸となり、藩主が滞在して、幕府の使者を迎えました。なお、下屋敷を拝領するまでは、ここは「麻布(あざぶ)下屋敷」と呼ばれていました。
下屋敷については、大名の隠棲地として用いられる他、資材置き場や荷揚げ場等が置かれるなど、多様な目的に使用されました。江戸の郊外に置かれたため、避難場所として使われることも多くありました。他藩では広大な敷地を利用して大名庭園を造営することがよく見られますが、福岡藩の場合も六代藩主継高が渋谷の下屋敷を遊猟用の休息所として利用しており、趣味のための場所としても使われていたことが窺えます。
藩士と江戸屋敷との関係に目を移すと、その勤務形態から、①藩主と共に江戸へ行き、藩主と共に帰国する者、②「定府(じょうふ)」と呼ばれ、長期間江戸に滞在する者、③藩主の参勤に従うも、江戸に着くとすぐに帰国する「立帰り」という者の三種に分けられます。江戸での生活は、福岡藩士の日記を見る限りでは、勤務日は月の半分程度で、それ以外は盛り場へ出掛けたり、祭礼を見物したり、充実した余暇活動を送っていたようです。また、他大名家の家臣との交流も盛んで、情報交換や文化活動を熱心に行っている様子が、江戸で写された書物の多さ等から読み取れます。
人々で賑わう霞ヶ関。左側が福岡藩上屋敷、右側が広島藩上屋敷。歌川広重「東都名所 霞ヶ関の図」 |
東京国立博物館前にある、福岡藩江戸上屋敷の鬼瓦 |
名所化する福岡藩桜田上屋敷
江戸屋敷は一方では政治の舞台でもありましたが、一方では江戸の観光名所でもありました。それは、ベアトら幕末に江戸を訪れた外国人が、武家屋敷の瓦の美しさに感動し、数多くの屋敷の写真を撮影していることからも分かります。なかでも福岡藩邸と広島藩邸の間の霞ヶ関は代表的な江戸名所として、古くから民衆に親しまれていました。歌川広重(うたがわひろしげ)を始めとする浮世絵師(うきよえし)らは好んでこの霞ヶ関を題材とし、また、「関一(せきひと)つ安芸筑前(あきちくぜん)の国境(くにざかい)」とか「花(はな)の江戸桜(えどざくら)のそばに春霞(はるがすみ)」というように、数多くの川柳(せんりゅう)にも詠まれました。
福岡に残る桜田上屋敷図絵馬(えま)
名所としての桜田上屋敷は地元筑前の人々にとっても誇らしい場所であったようです。というのも、この霞ヶ関を描いた絵馬が福岡市周辺で現在四点確認されているからです。とりわけ今回展示する絵馬はその描写が精細であり、藩主が駕籠(かご)に乗り江戸城へ向かう様子と屋敷前の賑わいを生き生きと伝えてくれます。これらの絵馬は全て市内とその周辺の神社に奉納されているものなのですが、おそらくは参勤交代に従って江戸へ行った人物が、その見事な屋敷を見た記念として帰国後に製作したのではないかと推測されます。
おわりにー江戸屋敷その後ー
このように、江戸の景観を象徴する存在であった武家屋敷も幕末には荒廃の一途を辿ります。それは幕府によって参勤交代が緩和され、大名妻子の帰国が許可されたため、江戸の武家人口が激減してしまったからです。その帰国の様子は島崎藤村(しまざきとうそん)の『夜明け前』にある通りで、一つの時代の終焉を予感させるものでした。
その後、明治になると、藩邸はその多くが政府に接収され、官公庁の建物として利用されることになりました。福岡藩の桜田上屋敷も明治3(1871)年に外務省となり、以後130年間にわたって他の省庁に替わることなく立地し続けています。結果、現代では「霞ヶ関」と言えば外務省を指すまでになりました。
官庁街となった現在の霞ヶ関に、広重が描いた景観の面影は、今はほとんど感じることが出来ませんが、外務省の廻りにある石垣と東京国立博物館前庭にある上屋敷の巨大な鬼瓦が、往時を偲ばせてくれます。
(宮野弘樹)