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No.281

考古・民俗展示室

ふくおか民族カタログ1-座と講-

平成18年6月20日(火)~8月27日(日)

鳥飼八幡宮の《宮座》 
 中央区今川(いまがわ)2丁目の鳥飼(とりかい)八幡宮は当初、旧鳥飼村(現在の中央区鳥飼)にあったといわれています。慶長13年(1608)に現在の地に移り、寛永18年(1641)から鳥飼村民によって古来の祭りが復活されたと同宮の『神社記』〔天明6年(1786〕には記されています。
  この祭りは現在、宮座献饌祭(みやざけんせんさい)として12月4日に神職と八人の《宮座(ミヤザ)》によって執り行われています。鳥飼八幡宮の《宮座》は株座で、江戸時代の人数は不明ですが、明治7年(1874)の「宮座規則帳」では12人、昭和17年(1942)の調査記録では10人ですから、少しずつ減少していることがわかります。
  《宮座(ミヤザ)》の家は、鳥飼と別府(べふ)にあり、2人1組で1年間の当番を務めることになっています。主たる役割を担う人を《大行司(ダイギョウジ)》、補佐役を《小行司(コギョウジ)》といい、鳥飼・別府の区別なしに成員を二分して、一方から《大行司》、もう一方から《小行司》を選ぶのが通例です。かつて《御九日》が10月19日に行われていた頃は、《大行司》宅を《本座(ホンザ)》といい、17日になると神前への供物(くもつ)の準備をするために《宮座(ミヤザ)》の人々が集まるものでした。
  明治8年(1875)の「御供米配当割付覚」によれば、当時、「御供(ごく)」28本、「御鏡餅」4重と2重、「蒔餅(まきもち)」6升、「掛魚(かけのうお)」3掛、「御神酒」、「御野菜」、「弊(へい)ほくり」2本、「打蒔(うちまき)」1升、「中折紙」4帖、「栗はいばし」26膳の供物が準備されていたことがわかります。「御供」は蒸した糯米(もちごめ)《御強飯(オコワイ)》を藁苞(わらづと)で包み込んだもので、供物の中心でした。また「御鏡餅」「蒔餅」は、《宮座(ミヤザ)》が藁を口にくわえ、細長い樫(かし)の《さし杵(サシギネ)》で搗(つ)き上げました。
  この《宮座(ミヤザ)》は、典型的な株座の形式を持ち、さらに多様な形態の供物を調製し続けていた点で、周辺地域の宮座を比較する際の指標となる存在です。



鳥飼八幡宮

志賀海神社の《社人》 
 東区志賀島(しかのしま)の志賀海(しかうみ)神社には、福岡市域でおそらく唯一の村座があります。村座は株座と異なり、一定の手続きを経ることによって、村の男性なら誰もが加入資格を得ることができる宮座です。志賀島ではこれを《社人(シャニン)》と呼んでいます。
  かつて《社人》の定員は21人、6つの座が次のように構成されていました。


大座 一番座 大宮司座 一良 二良 三良 四良
二番座 禰宜座 一良 二良 三良 四良
三番座 別当座 一良 二良 三良 四良
小座 四番座 検校座 一良 二良   四良
五番座 宜別当座 一良 二良   四良
六番座 楽座 一良 二良   四良

 《社人(シャニン)》組織を構成する6座は、大座・小座に分けられ、1番から6番まで順位がつけられていました。6番の《楽座(がくざ)》以外の座名は、いずれも社寺等の役職の名を擬したもので、それぞれ受け持つ仕事が決まっていたようです。大座は各4人、小座は各3人で構成され、年齢順に上から《一良(イチリョウ)》、《二良(ニリョウ)》、《三良(サンリョウ)》、《四良(ヨンリョウ)》と呼ばれます。小座には《三良(サンリョウ)》職がありません。昔は《座の田(ザンダ》という神田があり、そこで収穫される米から《大宮司一良(ダイグウジイチリョウ)》7俵、《禰宜一良(ネギウイチリョウ)》10俵、《別当一良(ベットウイチリョウ)》5俵、《検校一良(ケンギュウイチリョウ)》4俵の配当がありました。
  志賀海神社の氏子は、その1年間に男子が生まれると、旧暦9月9日(現在は10月9日)の《御九日(オクンチ)》〔国土祭(くにちさい)〕の朝、父子ともどもお宮に参拝し、拝殿に準備された《御座帳(オザチョウ)》に子の名を記しました。《御座帳》には、表に掲げた6つの座の欄があり、将来その子が入るべき座をそこで決めるのでした。これを《御座付け(オザツケ)》あるいは《御座座り(オザスワリ)》といい、村座に加入するための手続きとなります。
  この《御座付け》では、各座の加入資格は家ではなく個人に対して与えられますので、父がどの座に属しているかに関わりなく、その子の座を選ぶことができました。大座を選ぶ人が多く、特に禰宜座は配当米が最も多かったため人気があったといいます。しかし、実際に《社人(シャニン)》の座につくのはたいてい60歳を過ぎてからのことだったといいます。《社人(シャニン)》に欠員がでた時、《御座帳(オザチョウ)》に名が記された順に繰り上がっていくのです。
  《社人(シャニン)》は春秋の山誉(ほ)め祭りをはじめ、さまざまな祭りに重要な役割を果たし、また日常の社務についても神職を補佐してきました。しかし、村の社会全体の仕組みとも密接に関わりを持ってきた志賀海神社の《社人》組織も、昭和33年(1958)には《御座帳》から座の名が消え、同59年(1984)を最後に《御座付け(オザツケ)》も行われなくなってしまいました。現在《社人(シャニン)》は5人だけになってしまいました。


志賀海神社

2、宗教的講

 「ある目的を達成するために結ぶ集団」(『日本民俗大辞典』)を講といいます。その目的によって宗教的講、経済的講、社会的講に分けることができ、その内容も名称も多岐にわたります。今回はその中から、民間の信仰の中で培(つちか)われてきた宗教的講を少しだけご紹介します。福岡市域には、ほかにも観音講(かんのんこう)や薬師講(やくしこう)、伊勢講(いせこう)、地蔵講(じぞうこう)、天神講(てんじんこう)、山(やま)の神講(かみこう)、日待講(ひまちこう)等々、さまざまな講が作られてきました。「何々寄(よ)り」「何々籠(ご)もり」などとも呼ばれた講の多くは、個人的な信仰の動機を越えて地域の人々の結集を促し、コミュニケーションの場となっていました。


上警固の《庚申待ち》と《お大師様講》
 宮座でもご紹介した南区警弥郷の上警固には、《庚申待ち(コウシンマチ)》と《お大師様講(オタイシサマコウ)》という2種類の講がありました。《庚申待ち(コウシンマチ)》は男性の、《お大師様講(オタイシサマコウ)》は女性の集まりでした。
  上組(うえぐみ)の《庚申待ち(コウシンマチ)》は、60日に1度巡ってくる庚申(かのえさる)の日ごとに、《宿(ヤド)》を決めて集まり、猿田彦大神(さるたひこのおおかみ)の掛け軸を掛けて、深夜まで語り合うものでした。話題は、農作業のことから村の世間話、のろけ話、冗談までさまざまで、「長い話は庚申様の晩に」といわれるほどでした。がめ煮やかしわ御飯など、ご馳走もたくさん出されるものだったといいます。
  《お大師様講(オタイシサマコウ)》は毎月20日、その日の《宿(ヤド)》に集まり、弘法大師(こうぼうだいし)の掛け軸を掛け、読経とともに《数珠繰り(ジュズクリ)》を行うというものでした。《宿(ヤド)》は講員の家を順番に回し、《宿(ヤド)》には大きな数珠(じゅず)と鉦(かね)が持ち込まれます。人が集まると、数珠の大きさに合わせて座敷に円く座り、その中央で打つ鉦に合わせ、経を唱えながら数珠を動かします。数珠の親玉が自分の所に来るとそれを押し頂くものでした。《数珠繰り(ジュズクリ)》が終わると、お茶が振る舞われ、しばらく茶飲み話に花が咲きました。

下祇園町の《祇園寄》
 博多区の旧下祇園町(しもぎおんまち)三ノ組では、毎年7月1日になると、《祇園寄(ギオンヨリ)》と呼ばれる寄合(よりあい)を開いていました。下祇園町は博多ではありますが、山笠(やまかさ)を出さない町組に属していましたので、このような講を組んで祇園神を祭っていたのです。
  順送りで回ってくる《当番(トウバン)》が《祇園寄(ギオンヨリ)》を主催します。組の人々は決められた額の《切銭(キリゼニ)》を支払い、《祇園寄(ギオンヨリ)》と、その後続けて行われた親睦会の費用とするものでした。
  《当番(トウバン)》は《座元(ザモト)》とも呼ばれ、家を《会所(カイショ)》として提供し、前の《当番(トウバン)》から引き継いだ祇園宮(ぎおんぐう)の掛け軸を床の間に掛けます。この掛け軸の前に組の人々が一座して小さな夏祭りが開かれたのです。
(松村利規)

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