平成18年9月20日(水)~平成19年1月14日(日)
今山遺跡の石斧製作跡
1912年(大正元)、元寇防塁調査の際に、西区の今山付近の民家で石斧を採集します。その後、1923年(大正12)、今山の熊野神社周辺で多数の未完成の石斧と原石の露頭(ろとう)を発見し、この場所が磨製(ませい)石斧の製作地であることをつきとめます。更に石斧製作に4つの工程の復元やこれらの石斧生産の専業的集団がいたことを指摘し、すでに弥生時代に分業制が芽生えていたことを示します。また、今山遺跡と対岸にある今津貝塚の石斧製作法とそれに伴うに弥生土器の違いが、民族の違いによるものと考えました。民族の違いによる2つの系統論はその後、時期差であることが分かりましたが、遺物の観察による製作法の復元やその分布の広がり、また、専業集団の存在の推定等、今日の定説と言える指摘でした。
こうして、弥生時代の石斧製作とその流通により、重要性が認識された今山遺跡でしたが、戦前、戦後の採石事業により南北2つあった峰の北側は消失してしまい、さらに山全体を宅地化する計画まで起こります。そのことを憂慮した板屋猛氏ら地元保存会の要望により、1968年(昭和43)に発掘調査が実施されます。この調査をきっかけに石斧製作の開始時期、製作技法、石斧流通の範囲などさまざまな知見が得られました。また、その後の調査で、縄文時代の打製石斧の製作も行われていることがわかり、今山遺跡の重要性は更に増すこととなりました。
今山遺跡出土石斧製作工程資料 |
鴻臚館跡の発見
福岡城採集瓦拓本(大正4年、5年発見軒平瓦) |
今よりは秋づきぬらしあしひきの山松かげにひぐらし鳴きぬ
「万葉集 巻一五 三六五五」
この歌は736年(天平8年)、筑紫(つくし)の鴻臚館に滞在した遣新羅使(けんしらぎし)の一行が故郷を思い詠った4首の内の 一つです。筑紫の鴻臚館は平安時代以前には筑紫館(つくしむろずみ)と呼ばれていました。江戸時代以来、鴻臚館は現在の博多部(官内(かんない)町=中呉服町付近)に位置したとされてきました。ところが、博士は他3首に歌われた「志賀(しか)の海人(あま)」や、「志賀の浦」等を含めて、志賀島が眺望できて山松かげの蝉声が詠まれる条件を備える場所は博多部にはなく、福岡城をおいて他にはないと考え、それを実証すべく、1915年(大正4)、当時軍の施設があった城内に調査に向かいます。市民に開放されるドンタクの2日間の調査で、古代の瓦が採集される等、博士の説は補強されることになりました。
戦後になって、博士が推定した鴻臚館跡は競技場建設等により、破壊の危機に晒(さら)されることになりますが、博士に私淑(ししゅく)していた高野孤鹿氏や大場憲郎氏が1950年(昭和25)頃から城内の開発工事の折、大量の瓦や越州窯系青磁(えっしゅうようけいせいじ)等の遺物を採集します。また、1951年(昭和26)、平和台野球場南側のコートの造成に伴う発掘では鴻臚館の遺構の一部と考えられる礎石(そせき)や奈良・平安時代の古代瓦や越州窯系青磁等が出土しました。これらの成果から城内に鴻臚館跡が存在したことは疑いのないものとなりましたが、鴻臚館跡は既に破壊されたと考えられていました。しかし、1987年(昭和62)、当時の野球場の改修工事に伴う発掘調査で、大規模な建物の跡や大量の瓦、輸入陶磁器などが発見され、遺構が残っていることが分かりました。以来、今も続く発掘調査で、南北に並ぶ館跡が発見され、多量の輸入陶磁器等の外国産の品々が出土しました。その中には万葉集にある遣新羅使も向かった新羅(しらぎ)の土器も多く含まれ、改めて、博士の推測の正しさを証明することとなりました。
おわりに
博士の研究は発掘によらず、徹底した現地踏査・表面採集による資料収集に基づくものでした。やがて、発掘による研究が主流を占めるようになった1935年(昭和10)頃から研究の第一線から退くこととなります。1956年(昭和31)に博士が亡くなって、50年が過ぎ、その間に急増した発掘調査の成果は考古学の研究において更に高い比重を占めるようになりました。しかし、博士の現地に立ち戻り、そこから導き出した研究は発掘調査の成果と相容れないものではありません。そして、博士の研究の基礎となった福岡の遺跡の多くが史跡として残されていることは、研究によってその重要性を多くの人々に伝えたことによるものと思われます。その意味で博士の研究は福岡の考古学の発展のみならず、郷土の文化財保護に大きな足跡を残したと言えます。
(菅波正人)