平成19年3月27日(火)~5月27日(日)
はじめに
古代中国で生まれた屏風が日本にもたらされたのは七~八世紀の頃です。屏風は風をふさいだり人目をさえぎるための調度品で、平安時代には貴族にとってかかせないものとなりました。また室町時代には、パネル(扇(せん)といいます)を紐(ひも)などでつなぐ中国式の屏風から、紙製の蝶番(ちょうつがい)を使って画面が連属する日本式の屏風が発明され、私たちが知っている屏風の形になりました。日本式の屏風は画面が連続していますから、大画面の絵画を描くことができます。近世のさまざまな画派の絵師たちが、腕を競い合うように豪華絢爛な屏風絵を制作しています。
この展示では、当館が所蔵する屏風絵の中から、変わりものばかりを集めてみました。いったいなにが変わっているのか、会場ではクイズ形式で頭をひねっていただくようにしています。詳しい答えをお知りになりたいときは、このリーフレットを片手にご鑑賞ください。
第1問 なぜこんなに小さいの?
物語図屏風(ものがたりずびょうぶ) 六曲一隻
作者不詳 江戸時代
紙本着色 15.5×55.0㎝
屏風の機能を考えれば、その大きさは人間の背丈ほどの高さと、畳1枚程度を隠す幅が必要なはずです。ですからスタンダードな屏風は、高さ150~180センチ、幅330~370センチ程度になります。ところが、この作品は縦がわずか20センチたらずで、幅も60センチありません。こんなに小さくては屏風として役に立ちませんね。
実はこれ、お雛(ひな)さま飾りのための屏風で、男雛(おびな)と女雛(めびな)の後ろに立てかけられるものなのです。小さいとはいえ、画面には金泥(きんでい)や銀泥(ぎんでい)を使い、小さな人物まで色彩ゆたかにきちんと描かれています。現代の玩具のように大量生産されたものではありません。普段は普通サイズの作品を描いている絵師が、手を抜くことなく仕上げています。おそらく、裕福な商家や上級武家、貴族などのために作られたのでしょう。そうした高価な雛飾りでは、屏風以外の道具類も小さいながら実物と同じ作りになっています。最小の屏風、それがこのような雛屏風なのです。
第2問 これ、絵ですか? 洗濯物?
誰(た)ヵ袖屏風(そでびょうぶ) 六曲一隻
作者不詳 江戸時代
金地裂貼付(きんちきれはりつけ) 100.0×309.6㎝
絵のように見えながら絵ではない屏風もあります。紐にかけられ、洗濯物のようにぶらさげられた小袖(こそで)は、よく見ると描かれたものではなく、実際に小袖の布が金色の画面に貼り付けられたのだとわかります。小袖だけではありません。紐も、右端にある文箱(ふばこ)と硯箱(すずりばこ)も、すべてが布の貼り付けによって表現されているのです。小袖が紐に吊されているのは、桃山時代や江戸時代の花見の風情に由来するもの。当時は、幔幕のかわりに小袖をあつめて周囲にめぐらせ、その美しさを競い合ったといいます。また文箱や硯箱があるのは暗示的ですね。この作品に使われている端切れは、特定の女性が愛用していた小袖のものだったのかもしれません。画面全体が、ある女性を象徴していると想像もできるのです。
2 誰ヵ袖屏風(部分) |
第3問 風をふさげない屏風。なぜ?
山桜図(やまざくらず)・藤図屏風(ふじずびょうぶ) 六曲一隻
森義章筆 江戸時代
紙本着色 167.0×373.8㎝
屏風は風をふさぐから屏風。ところがこの作品は風を通してしまいます。各パネルに窓が開いていて、そこに竹屋町(たけやまち)と呼ばれる上質な絹が張られています。この絹は薄く、繊細な織り柄があって美しいのですが、簡単に風を通すのです。風を通す屏風が実用になるのでしょうか。
本来屏風は、建具が発達していない平安時代の貴族の邸宅で、冬の冷たい風を遮蔽するために重宝されました。それを考えると、この屏風は、建具が発達した江戸時代の屋敷にあって、暑い夏に涼しい風を通したいということから作られたのだと考えられます。竹屋町は強い日差しも和らげてくれますから、立派に実用にもなるのです。 もうひとつ、この屏風の変わっているのは、表裏両方に絵が描かれているところ。表が山桜で裏が藤です。どちらからでも見ても飾りになるのです。作者の森義章は、江戸末期から明治初期にかけて京都で活躍した四条派の画家です。