平成19年7月31日(火)~9月30日(日)
江戸時代の大名家に仕えた御用絵師の活躍を紹介するシリーズ展の3回目です。今回は、福岡藩の御用絵師の筆頭にあげられる尾形家をとりあげ、特に、同家に伝わった「尾形家絵画資料」(福岡県文化財・福岡県立美術館蔵)を中心に紹介します。
《御用絵師と粉本(ふんぽん)》
「尾形家絵画資料」は、江戸時代を通じて黒田家に仕えた尾形家の絵師たちが作品を完成させていく過程や、日頃の研鑽の様子を知ることのできる貴重な資料で、4800件近くもの粉本( ふんぽん)や下絵、写生帖などからなっています。
粉本とは、古来東洋では白色顔料( がんりょう)の胡粉(ごふん)で下絵を描き、その後に墨を用いて作品を完成させていったことから、下書きを意味する言葉でした。また、研究や制作の参考とするために古い作品や名のある絵師の作品を模写したもの(大きな作品を小さく縮尺して写したものを縮図といいます)や、 弟子や子孫のために残した絵手本なども粉本と呼びます。大名家に仕え、様々な用命に応じて絵画を制作しなければならなかった尾形家にとって、こうした資料は、かけがえのない財産として代々蓄えられ、伝えられてきました。
手本をもとに勉強し、先達が残した作品をふまえて絵画を描いていく粉本主義は、個性や創造性を重んじる西洋近代の芸術観からは否定的に評価されていますが、「尾形家絵画資料」が示しているのは、創造性に欠けたマンネリズムでは決してありません。むしろ、できるだけ幅広く先例を研究し、時には実物を写生し、日々研鑽を積むことによって優れた作品を生み出そうとする絵画に対するまじめな姿勢が感じられます。それは、不確かな天才の出現に頼らず、着実に絵師の家系として存続していくための智恵でもありました。
《肖像画の制作》
尾形家に依頼された重要な仕事のひとつに、福岡藩主の肖像画制作がありました。藩祖黒田如水(じょすい)や初代長政(ながまさ)の福岡藩草創期には、まだ御用絵師の職を世襲する家系が定まっていませんでしたが、2代藩主忠之(ただゆき)以降の肖像画は、ほとんど尾形家によって描かれています。肖像画そのものは黒田家に伝来していますが、制作過程がわかる下絵類が「尾形家絵画資料」にあります。例えば1「黒田継高(つぐたか)像」。ごく簡単な輪郭線で継高の顔と肩あたりが描かれていますが、画面左には筆先を整えたあとも見えます。使われているのは普通の毛筆ではなく、柔らかい木の棒の先を焼いて焦がし、その炭(すみ)で描く焼筆(やきふで)と呼ばれるものです。焼筆で引いた線は、水墨(すいぼく)と違って容易に消すことができるため、下書き用に用いられました。現代風にいえば、鉛筆や木炭によるデッサンです。この図は、実際に継高の姿を見ながら描かれたのかもしれません。
御用絵師は上級の家臣ではなく、藩主の姿を親しく見る機会はほとんどありませんでした。そこで肖像画制作にあたっては、日時を定めて藩主の姿を直接写生すること(対看写照(たいかんしゃしょう)といいます)が許されました。「黒田斉清像(くろだなりきよぞう)」には、藩主の姿を実際に見てスケッチしたものと、その日付や場所が記された完成作一歩手前の下絵が残っています。また下絵の書き込みには、家老や御用人(大名家の金銭出納や雑事などの家政を担当する)など藩主に近い家臣が下絵を検分して本制作を許可したことも記され、肖像画制作の手続きもわかります。
こうした下絵やスケッチは大切に保存されました。藩主の肖像画は、藩主の没後に寺院や家臣のために再び制作することもありましたから、検分を終えた下絵は「紙型(かみがた)」として第2第3の作品を描く時になくてはならないものだったのです。また「尾形家絵画資料」には、藩主だけでなく僧侶や武士、過去の高名な人物などの肖像画の写しが300件も残されています。それだけ肖像画に対する需要があったということでしょう。