平成19年10月2日(火)~12月2日(日)
はじめに
福岡城武具櫓(明治期の古写真より) |
今年、福岡城は完成して400年という節目の年を迎えました。福岡城跡を訪れると現在でも櫓や石垣が残っており、 往時(おうじ) の姿を 偲(しの)ぶことができます。 福岡市教育委員会では、平成17(2005)年1月に「福岡城跡保存整備基本構想」を策定し、本格的な史跡整備へ第一歩を踏み出したところです。
さて、福岡城と言えば天守閣の有無など、城が築かれた当初に関心が向けられがちで、築城後の城についてはあまり関心が寄せられていないように思われます。そこで本展覧会では、現在に残る福岡城跡が、400年もの間、どのようにして守られてきたかにスポットをあて、福岡城の歴史を黒田家や家臣団の家に伝来した絵画資料や古文書などを通じて紹介したいと思います。
一、城を築く
福岡城の築城についてうかがえる文献として、福岡藩の儒学者である 貝原益軒(かいばらえきけん)が編纂した『 黒田家譜(くろだかふ)』や『筑前国続風土記(ちくぜんのくにぞくふどき)』があります。これらの記述によれば、福岡藩初代藩主黒田長政(くろだながまさ)は、筑前入国当初、名島(なじま)城(現在の福岡市東区名島)を居城としましたが、城下の土地が狭いことを理由に新しく城を築くこととし、那珂郡警固村(なかぐんけごむら)福崎(ふくざき)の地に慶長(けいちょう)6(1601)年から約7年の歳月をかけて築城し、黒田家ゆかりの地である 備前国(びぜんのくに)邑久郡(おくぐん)福岡(現在の岡山県瀬戸内市(せとうちし)長船町(おさふねちょう))にちなんで福岡城と名付けたといいます。
築城過程については『黒田家譜』などに詳しく記述されていないため、不明な点が多いのですが、築城時に長政や父黒田 如水(じょすい)から家臣に宛てられた書状が残っており、そこからおおよその経過がうかがえます。
慶長6年6月に御普請番3組(土木工事の現場監督者)が定められており、少なくともこの時点には築城に着手していたものと考えられ、翌7年には本丸や二の丸をはじめとする 内郭(ないかく)(およそ現在の 舞鶴公園(まいづるこうえん)と大濠公園(おおほりこうえん)を含む範囲)が、同8年には外郭(がいかく)(およそ現在の那珂川(なかがわ)を東端、黒門川(くろもんがわ)を西端とする範囲)が完成し、全体は同12年に完成したと考えられます。
当館には黒田二十四騎の一人で築城時に石垣普請奉行(いしがきふしんぶぎょう)をつとめた野口左介一成(のぐちさすけかずなり)宛ての書状が多く残されており、中には福岡城築城時に如水や長政が石垣普請について指示したものもあり、築城過程の一端をうかがい知れます。