平成19年11月13日(火)~平成20年1月14日(月・祝)
1.宗祗騎馬像 (北九州市立自然史・歴史博物館蔵) |
『筑紫道記(つくしみちのき) 』(写真2)は、室町時代、山口を拠点にした守護大内政弘(しゅごおおうちまさひろ)(1446-95)に招かれた連歌師宗祗(れんがしそうぎ)(1421-1502、写真1) が、文明12(1480)年9月6日に山口を出発し、太宰府・博多などをめぐり、10月12日に再び山口に帰着した36日間の旅日記です。時に宗祗60歳。歌枕(うたまくら)になっている名所を訪ね、各地で連歌会(れんがえ)を行う旅で、11年の長きに及んだ応仁(おうにん)・文明(ぶんめい)の乱(らん)が終わり、豊前(ぶぜん)・筑前(ちくぜん)両国を平定した大内氏領国の平和をことほぐ紀行文になっています。
宗祗は、この旅のなかで当時の博多の様子を活写しています。この展覧会では、関連資料を交え、『筑紫道記』が切り取った527年前の博多を紹介します。
1 宗祗と『筑紫道記』
2.筑紫道記(表紙) |
宗祗(応永(おうえい)28〈1421〉~文亀(ぶんき)2〈1502〉年) は、出身地・出自とも不明。室町時代の連歌師で、和歌の西行(さいぎょう)、俳諧の芭蕉(ばしょう)と並び称されます。姓は飯尾(いいお)、自然斎(じねんさい)、種玉庵(しゅぎょくあん)と号し、京都の北野連歌会所(かいしょ)の奉行(ぶぎょう)をつとめました。編書『新撰菟玖波集(しんせんつくばしゅう)』、連歌論書『吾妻問答(あづまもんどう)』、肖柏(しょうはく)・宗長(そうちょう)との合作『水無瀬三吟(みなせさんぎん)』、『古今和歌集』・『源氏物語』などの古典注釈、紀行文『筑紫道記』などの著作があります。文亀2(1502)年、越後(えちご)から駿河(するが)に向かう途中、箱根の湯本(ゆもと)にて82歳で没しました。
『筑紫道記』は、山口を起点に、周防(すおう)・長門( ながと)・豊前・筑前の大内氏領国を一筆書きのように旅した、宗祗の36日間の紀行文です。門弟の宗歓(そうかん)(宗長)・宗作(そうさく)の二人の供のほか、大内氏から侍二人と馬が提供され、宿所の手配や連歌会の興行(こうぎょう)など、すべてにわたって大内氏の細やかな心遣いがみられます。『筑紫道記』には、各地の名所風景、神社仏閣の様子のほか、宗祗の平和観、文学観、人生観や時には政治への発言なども記されています。
2 山口から太宰府の旅
宗祗は、文明12(1480)年9月6日に山口を出発し、長門の豊浦(とよら)・赤間関(あかまがせき)から九州の若松(わかまつ)に上陸、芦屋(あしや)・木屋瀬(こやのせ)を経て、太宰府天満宮に9月16日に到着しました。天満宮、観世音寺、都府楼跡(とふろうあと)などをめぐり、横たわる山のようであったと形容した水城跡(みずきあと)(写真3)を見ながら、9月20日には次の目的地博多に向かいました。この旅の過程で、この世は憂(う)き世という人生観、水城造営に対する批判や若い守護代(しゅごだい)のために詠んだ発句「ひろく見よ民の草葉の秋の花」(写真4)など、宗祗の政治観も語られています。
「筑紫道記」の旅 文明12年(1480)年 |