平成20年3月18日(火)~5月11日(日)
図1 柑子岳城址遠景 |
博多湾(はかたわん)の西側を画する糸島(いとしま)半島は、現在、福岡市西区・糸島郡志摩(しま)町・前原(まえばる)市に分かれ、江戸時代以前は筑前国(ちくぜんのくに)志摩郡に属しました。糸島地方を治めた領主としては、源平合戦(げんぺいかっせん)の折、平家に味方した原田種直(はらだたねなお)の子孫原田氏が有名ですが、原田氏が一貫して同地方を治めたわけではありません。原田氏が糸島地方全域に威(い)を振るったのは、実は戦国時代(せんごくじだい)最末期のわずかな期間に過ぎず、その間、大宰少弐武藤(だざいしょうにむとう)氏(筑前、現福岡県)、大内氏(周防(すおう)、現山口(やまぐち)県)、大友(おおども)氏(豊後(ぶんご)、現大分(おおいた)県)の支配下にありました。ことに半島部の志摩郡は、大友氏とのつながりが深い地域だったのです。
本展覧会では、鎌倉(かまくら)時代後半から糸島半島を治めた大友氏と、同氏が築いた柑子岳城(こうじだけじょう)をめぐる歴史の一端を、古文書(こもんじょ)を通して紹介します。
1 大友氏の志摩郡入部
大友氏と志摩郡との関わりは、鎌倉時代後半に遡ります。大友頼泰(よりやす)は、弘安(こうあん)9年(1286)に、蒙古合戦(もうこかっせん)(弘安の役(えき))の恩賞として、「怡土庄志摩方(いとのしょうしまかた)三百町惣地頭職(そうじとうしき)」を鎌倉幕府(ばくふ)から与えられました。惣地頭は現地を実際に経営する小地頭(こじとう)(名主(みょうしゅ))から年貢課役(ねんぐかやく)等を徴収する権利を持っていました。しかし、入部後20年にわたり所領内の名主たちの抵抗に遭(あ)い、円滑に領有することはできなかったようです(図2)。南北朝(なんぼくちょう)時代になると、足利尊氏(あしかがたかうじ)から怡土庄のうち北条(ほうじょう)氏一門大仏維貞(おさらぎこれさだ)が領有していた地域を与えられ、権益を拡大します。
2 大友氏の志摩郡支配
室町(むろまち)・戦国時代、筑前国の守護(しゅご)は、少弐氏あるいは大内氏が務めましたが、志摩郡は両氏の支配領域には含まれず、大友氏が排他的に統治しました。大友氏は志摩郡に郡代(ぐんだい)を置いて、統治の実務に当たらせました。志摩郡代は大友氏の命令を受けて郡内の訴訟(そしょう)の処理、所領の授受、寺社の保護等を行いました。
志摩郡代の重要な職務の一つに博多支配への関与が挙げられます。1550年代以前、博多に駐在する博多代官は志摩郡代の指揮下にありました。志摩郡代は博多津内(つない)の訴訟、朝鮮貿易(ちょうせんぼうえき)、寺社の再興等をつかさどり、大友氏の命令を津内に伝達する役割も担っていました。
戦国時代になると、大友氏は福岡市西区草場(くさば)・今津の境界に聳(そび)える柑子岳(こうじだけ)(標高254.5m)に柑子岳城(図1)を築き、志摩郡代が城督(じょうとく)を兼ねました。大友氏は、博多を扇の要とするように、博多湾の両翼に位置する西部の志摩郡・柑子岳城と、東部の香椎郷(かしいごう)・立花(たちばな)城とを拠点として、大内氏に対抗しながら筑前国支配を展開したのです。弘治(こうじ)3年(1557)大内氏が滅亡すると、大友氏の支配領域は筑前全体に及ぶようになります。
3 柑子岳城の落城
天正(てんしょう)6年(1578)末、大友氏が日向(ひゅうが)(現宮崎県)において島津(しまづ)氏に大敗したことを切っ掛けに、領国の各地で戦乱がおこり、大友氏領国は崩壊の危機に瀕(ひん)します。翌年正月には柑子岳城も怡土郡高祖城(たかすじょう)の原田了栄(りょうえい)の攻撃を受け、城督木付鑑実(きつきあきざね)は郡内の将士とともに籠城します。8月に立花城の軍勢が柑子岳城に兵糧を送るため救援に向かいますが(図4)、結局、9月に落城します。木付鑑実は下城(げじょう)し、立花城に避難しました(図5)。柑子岳城の陥落(かんらく)により、大友氏の志摩郡支配は終焉(しゅうえん)を告げました。これ以降、天正15年(1587)の豊臣秀吉(とよとみひでよし)による九州平定まで、志摩郡は原田氏の治めるところとなるのです。
(堀本一繁)
図2 鎮西下知状(後半部分)(史料5) |
図3 大友親綱書状(史料6) | 図4 原田了栄知行充行状(史料20) |
図5 大友義統感状(史料21) |