平成20年5月20日(火)~7月13日(日)
軍事郵便用の郵便書簡(部分) |
昭和20(1945)年6月19日深夜から翌20日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)による爆撃をうけ、博多部など福岡市の中心部は焼け野原になりました。福岡市博物館では、開館以来、この「福岡大空襲の日」の前後に「戦争とわたしたちのくらし」展を開催してきました。毎回さまざまなテーマで展示をしてきたこのシリーズも今年で17回目です。今回は、戦地と銃後(じゅうご)(戦場の後方。直接戦闘に加わらない一般国民)とをつないだ軍事郵便、銃後から戦地の将兵へと送られた慰問文や慰問袋に関する資料を集めました。
出征する人たちへ
出征する人たちのために、人びとは神社の護符や千人針などのお守りを用意しました。千人針は、布に赤い糸で千人の人に一針ずつ縫って結び目を作ってもらうという手間がかかるものでした。寅(とら)年の人には年の数だけ縫ってもらえたそうですが、1枚の布には1人1回しか針を刺せず、同じ人が複数回刺すと効き目がなくなるといわれていたようです。腹巻き状のものや肌着に刺されたものなどがあります。
村や町をあげて、出征する兵士の見送りも行われました。一時期、軍事動員の秘密を守るために見送りが禁止されたこともありましたが、規制を設けながらも、戦意高揚をねらって、戦争末期まで、その土地の実情に合わせた兵士の見送り行事は続いていたようです。
昭和13年と14年の福岡市内のある町内会の決算報告によると、その町内会では、兵士の送迎費とは別に、町内から出征する兵士たちに、昭和13年は1人5円、昭和14年は1人2円50銭の餞別が支出されていたことが分かります。
軍事郵便用の郵便書簡(部分) 「山田」の判は検閲者のものと思われる |
軍事郵便
戦地の将兵が内地の近親者あてに発信する手紙や、反対に戦地の将兵あてにだす郵便物は、軍事郵便として一般の郵便物とは区別されていました。戦地からの郵便物は無料、戦地あての郵便物は国内郵便と同じ料金で配達されました。
軍事郵便は、プロイセン(ドイツ)がナポレオン三世の第二帝政下のフランスに勝利した普仏戦争(1870~71)で、ドイツ軍が世界で初めて設けた制度です。出征してから一度も故郷からの便りを受け取ることができなかったフランス兵と、銃後と手紙のやりとりが可能だったドイツ兵では、その戦意に大きな差があり、それが戦争の勝敗を決する一因になったという分析もありました。
日本でも、軍事郵便の制度は、日清戦争(1894~95)や日露戦争(1904~05)の際にもありました。日清戦争期には1239万9900通、日露戦争期には4億5812万9424通が取り扱われたといいます。第二次世界大戦中に取り扱われた軍事郵便の数は正確には分かりませんが、昭和12年から16年の間は推計で平均して年4億通もの軍事郵便があったそうです。これは当時の全郵便物の約一割にあたります。
ブロマイド付きの手鏡「皇軍慰問用 つわもの鏡」 |
慰問袋 |
慰問文と慰問袋
戦地の将兵にあてて慰問文や慰問袋を送ることは「銃後のつとめ」とされ、大いに奨励されました。戦地の家族や友人など特定の個人あてに慰問文や慰問袋を送ることはもちろん、学校などから戦地の「兵隊さん」あての慰問文や慰問袋を送ることもありました。そうした手紙を受け取った「兵隊さん」が、一時帰国した際などに、慰問文の送り主を訪ねてくるということもあったといいます。
銃後の物資不足が深刻化する以前の昭和十年代前半、慰問袋はデパートなどでは、予算に合わせて揃えることができ、慰問袋用品の売出しも行われています。慰問袋には、日用品や食料品、嗜好品などが入れられました。
しかし、「兵隊さん」が喜ぶのは、手作りの品や手紙など、「真心のこもった」ものであることが、さかんに宣伝されました。少女向けの雑誌の附録に、慰問用の手作り人形の型紙がつけられることもありました。
戦地の郵便事情
激しく戦闘が行われている最中には、手紙を書く余裕はなくても、戦闘状態が落ち着くと、軍属(軍人ではなくて軍に所属する文官・文官待遇者など)の逓信省(ていしんしょう)(郵便や電信などを管轄した中央官庁)の職員らによって、戦地にも郵便局が設置されました。陸軍が戦地に設置した臨時郵便局は野戦郵便局(南方の戦線では野戦郵便所)、海軍が設置した郵便局は軍用郵便所といいました。郵便のほかに、貯金や為替などの業務も取り扱っていました。
『野戦郵便旗』は、昭和12年から14年にかけて上海や南京などで野戦郵便局にたずさわった人の従軍記です。そこからは、戦地の将兵が銃後からの便りを心待ちにし、郵便局が開設されると、兵士たちが書いた故郷への便りが、次々と集まってくるようすがうかがえます。
しかし、戦局が厳しくなるにつれ、戦地と銃後を結ぶ郵便は途切れていきます。昭和18年3月から2年半にわたり、ティモール島西部(現・インドネシア共和国)の野戦郵便所に勤務した人の記憶によれば、その間に輸送船で軍事郵便が大量に届いたのは一回きり、その後は将校用の飛行機でごくわずかに運ばれただけだったといいます。
検閲済のスタンプが押された 戦地からの便り |
戦地から故郷への便り
戦地から故郷へと出す手紙にも検閲がありました。時期や担当者によって検閲の厳しさに差があったことは容易に想像できます。部隊の編成や人員、細かい場所、作戦の時期に関わるような事項は必ず秘匿事項で、これは、新聞や雑誌の報道も同じでした。そうした中、家族や故郷の人びとを気遣い、また、「生きていること」を知らせるために、人びとは戦地から故郷へと便りを送りました。
(太田暁子)