平成20年5月27日(火)~7月21日(日・祝)
文字瓦は語る
福岡市内や太宰府で出土する平安時代の瓦の中に、凸面についた格子目の中に文字が印刻されたものがあります。それらは製作時に、粘土を叩きしめる板に刻まれた格子目や文字が転写されたものです。瓦は凸面を丸瓦であれば上、平瓦であれば下に向けて屋根に葺かれるので、瓦の文字は軒下から見上げても見ることができません。瓦の文字は軒瓦の瓦当文様のように甍を飾るものではなく、造瓦屋、それを管轄する役所名、供給先や使用場所など需給関係にかかわるものが記されています。「平井瓦屋」銘は瓦屋名、「賀茂」「佐」銘も瓦屋の名ではないかと推測されています。「安楽寺」銘は太宰府天満宮の前身の寺院、「観世音寺」銘は天智天皇の発願により天平18年(746)に完成した府の大寺を示しています。「警固(けご)」銘は鴻臚館付近に置かれた防衛施設「警固所」を示すとされ、現在なお地名に残っています。このように印刻された文字は簡単な文言ですが、多くの情報を提供しています。中世に入ると瓦当面に社寺名を記した軒瓦が現れます。文字瓦については中山平次郎らによる研究以来、多くの研究成果が発表されています。
当館所蔵の文字瓦は福岡市内およびその近郊で採集されたもので、瓦には出土地、出土年月日が記入されているものが多く、その後の発掘調査成果と照合することが可能です。また、近年の開発により調査されないまま破壊を受け、消滅してしまった遺跡については、その詳細を知るための貴重な資料となっています。
瓦に刻まれた文字の意味するもの
平井瓦屋 文字通り、造瓦屋の屋号を印刻したもので、国分瓦窯跡(太宰府市大字国分寺辻)で採集の他、剣塚瓦窯跡(筑紫野市大字杉塚)でも出土しています。大宰府政庁、国分寺に供給されました。
佐 来木(らいき)北瓦窯跡(太宰府市大字観世音寺字来木)、松倉瓦窯跡(太宰府市大字坂本字松倉)で焼かれ、大宰府政庁、国分寺、鴻臚館に供給されました。「佐瓦」と印刻された瓦の存在から、造瓦屋を示しているのではないかと考えられています。
「佐」銘文字瓦 |
賀茂瓦 都府楼北瓦窯跡(太宰府市大字観世音寺字松ヶ浦)で焼かれ、大宰府政庁跡で10世紀中頃の政庁III期の整地層および遺構面から出土しています。造瓦屋と考えられています。平安京に出土例があります。平安時代に大宰府管内で「賀茂」の名がみられないことから、京から瓦工人が移動したことも考えられます。
伊貴作瓦 斜ヶ浦瓦窯跡(福岡市西区生の松原)で焼かれたものです。「伊貴」については現在の地名生の松原の「生(いき)」に通ずる音であり、造瓦所が置かれた地名を示すと考えられます。
安楽寺 太宰府市馬場遺跡で残りの良い文字瓦がまとまって井戸から出土しています。「安楽寺参重■(御塔?)」、「(安)楽寺
天承二遘梶^歳次壬子」(1132)と印刻されています。安楽寺以下の文字から三重塔所用瓦として生産されたものであることがわかります。「安楽寺」銘瓦は、この他に数種類の型があります。大宰府政庁跡で出土した「安楽之寺」銘文字瓦は、本来の供給先である安楽寺以外で使用するために、縦方向に2本の線を入れ、銘が消されています。III期南門基壇下で検出された瓦溜りから出土しました。瓦溜りには政庁跡の広範囲に広がる焼土や灰がみられ、天慶4年(941)の藤原純友の兵火によるものとされています。
左字で「安」一文字のみ二重の斜格子目上に記されているものは、同じ二重の格子目上に記された「賀茂」瓦との関連が指摘されています。
観世音寺 天智天皇の発願により天平18年(746)に完成した府の大寺を示しています。文字の書体の他、文字を囲む二重・三重の方形枠、格子目の叩きが「安楽寺」瓦と極めて類似しています。紀年銘のある安楽寺瓦に近い製作年代(12世紀前半)が考えられます。
四王 『日本紀略』に大同2年(807)に大野城鼓峯の四王院を停止し、仏像・法物を筑前国分寺に移した記事があり、宇美町四王寺毘沙門堂東側での出土例からその「四王」院を示すとみられています。
警固 斜ヶ浦瓦窯跡(福岡市西区生の松原)で焼かれたものです。鴻臚館付近に置かれた防衛施設「警固所」を示すのではとされ、現在なお地名に残っています。「警固」銘瓦は新宮町相ノ島沖で引き揚げられ、平安京でも出土しています。
筑前瓦 大宰府政庁跡で多く出土しています。「竹前」の他、「筑」「前」と単独で記されている文字瓦もあります。
先の「安楽寺」銘文字瓦には年号が記されていましたが、年月日のみを記した文字瓦もあります。瓦の製作、あるいは瓦が葺かれた建物の造営の年月日を記したものです。例として「天延3年(975)7月7日」(太宰府市坂本瓦窯出土)「延喜11年(911)」(福津市神興廃寺出土)、「延喜19年(919)」(久留米市西行山瓦窯出土)などがあります。
文字瓦の研究史
古瓦の研究は、古くは安永5年(1776)に藤貞幹(1732~1797)によって著された『古瓦譜』が有名で、その後の古瓦研究に大いに資するものでしたが、所載の古瓦に記された文字の半ばは捏造されたものでした。
高橋健自(1871~1929)の『考古学雑誌』第5巻第12号〔大正4年(1915)〕における論考「古瓦に現われたる文字」は、文字瓦について初めて科学的に論述されたものです。
古瓦に記された文字を先ず瓦当文と銘文の2つに分類し、さらに表現上の目的から瓦当文を所属名(寺院・官衙名)、所属名及び年紀、年紀、造営文、略語に、銘文は所属名、地名、人名、造営文に細分しています。次に表現の方法を、型とヘラ書きによるものに二分しました。
型によるもの型押─正字・左字(裏返しの文字)、希に陰刻の文字
極印─陽刻・陰刻の文字、正字・左字
直接書いたもの─ヘラ書き
筑前出土例の中から、型押(実際は叩き板に刻まれた文字が転写)によるものとして以下の文字瓦が報告されています。「安楽寺」及び「安楽之寺」数種、「観世音寺」銘瓦の他、中山平次郎発見の「警」銘瓦を紹介しています。藤貞幹の『古瓦譜』所載の「警固」銘瓦については、拓本から見て偽作としています。
大宰府出土瓦の文字銘にある地名について、「賀茂瓦」は『大宰管内志』筑前鞍手郡加茂明神社、「平井」「平井瓦」は同筑前那珂郡飛来(ひらい)権現社、金平村の田字にある平井田、「佐」は同筑前上座郡佐田村を示すものとしています。
中山平次郎(1871~1956)は、『考古学雑誌』第5巻第12号〔大正4年(1915)発行〕で「警の一字を有せる古瓦片」を著し、文字瓦について初めて論述しています。警固所の所在について筑紫郡警固村大字下警固(現中央区警固)と推定した論考を発表後、警固所と関係するのではないかと思われる瓦片を早良郡壱岐村大字拾六町与納(現西区拾六町湯納)の里道で拾得し、その紹介とともに、所在についてさらに一考したものです。中山平次郎はさらに、『考古学雑誌』第6巻第10号・7巻1・2・4号〔大正5年(1916)〕「古瓦雑考」(4)(7)(8)(9)において文字瓦について論述しています。
大宰府政庁跡出土の安楽寺銘が刻まれた叩き板の転用例について、安楽寺所用瓦ではないので文字を書き消すために縦線を追刻したと論じています。
「平井瓦」についての高橋健自の説に対しては、製作地についてはなお今後の調査が必要と述べています。平井瓦は、方形枠内に2字×2行陰刻左字で「平井瓦屋」の4字を配する例や、「平井」文字の周囲の叩き目が陰刻の菱格子となっている例など12種報告しています。太宰府市般若寺跡からは多種の平井瓦が出土しています。文字瓦が珍しくない太宰府出土瓦の中で、同寺跡では平井瓦以外の文字瓦が出土していないことを初めて指摘しています。
「賀茂瓦」については、「賀」が正字、「茂」が左字で刻まれている大宰府政庁跡の出土例、左字の「賀茂瓦」で茂が異体字「筏」とある例を報告しています。
大宰府政庁跡出土の「佐」銘瓦について、最終画まであるものと、最終画を欠くもの、さらにそれぞれ正字と左字(左文字、裏返しの文字)とに分け、文字の周囲の格子目叩きについても注目、文字の上方に一横線を画し、さらに上方に左上より右下に向う多数の平行する斜線列を加え、下方は横線がなく斜めの交差する斜線文を持つ例や、先の大宰府政庁跡の文字瓦にはない右上より左下に向う若干の斜線を追刻している筑前国分寺跡出土例などの違いが分類し、計8種報告しています。
中山平次郎報告「観世音寺」銘文字瓦 |
観世音寺文字瓦については高橋健自が論述したように、安楽寺文字瓦と「寺」の字の筆致が酷似しており、同一瓦工の製品と推測しました。
現在までに、太宰府・福岡市内では81種余の平安時代の文字瓦が確認されていますが、中山はその内の35種を報告しています。
瓦当に記された文字瓦
中世に入ると瓦当面に社寺名を記した軒瓦が現れます。大宰府では軒平瓦の剣頭文の間の中央と左右の3つの丸い界線中に「観世音寺」「戒壇院」の囲い文字を配したものが出現しました。
博多では15世紀前半には「櫛田宮」軒瓦が出現します。軒丸瓦は圏線に囲まれた連珠文帯内側の中央上に「櫛」、左下に「田」、右下に「宮」、軒平瓦は右側から「櫛田宮」と配しています。
(佐藤一郎)