平成20年6月17日(火)~8月24日(日)
博多仁和加半面 |
博多人気質
山笠や松囃子(まつばやし)で知られている博多。周辺の町や農漁村からたくさんの人びとを迎える商都として、中世から栄えてきた歴史を持つ「都会」です。
そこで育った人たちには他所にはない独特の博多人気質(はかたじんかたぎ)が醸成されてきました。一般的に、「おおまんで陽気、熱中しやすいが飽きやすい、物怖(ものお)じしないが恥ずかしがり屋」などと言うのがそれです。この気性は伝統的でかつ創造的な博多の生活スタイルを生み出し、今に伝えてきました。博多の日常には、多様な人びとと上手に接したり、物事をうまく伝えるなど、人間関係を円滑にする智恵がたくさん秘められているように思えます。
とはいうものの、気質や気性は他所者の目には見えにくいものです。それは考え方であったり、習慣であったりするからです。この展示では、大正時代から昭和10年代までの博多の生活を「あれこれ」と見ることで、「博多の者(もん)」の育んできた知恵や気質に迫ってみたいと思います。
近所つき合いは親戚よりも濃ゆかぁ
小さな町内が寄り集まった「都会」が博多です。そこで暮らす人びとは、向こう三軒両隣のつき合いを親戚よりも大事にしました。何かあれば助け合い、声を掛け合うことが博多の日常です。家でお祝いがある度に、近所の人を招待するのが通例となっており、その案内を子供に持たせて家々を回らせました。案内状には、招待者全員の名前が記されているので、前もって気遣いができ、いざ顔を合わせたとき、見知らぬ人でも気軽に声をかけることができたといいます。
ごりょんさんの手一本
「ごりょんさん」とは商家のおかみさんのことです。表舞台で活躍するのは旦那(だんな)衆ですが、その間、店や家をしっかりと守るのがごりょんさんの務めです。手一本とは、何か決め事をするときにされる手打ちのことです。これが入るとそれ以降不満があっても、一切口にすることはできません。覚悟をしめす身振りです。旦那衆はしょっちゅう手一本を入れていますが、女性たちの手一本とは、嫁ぐ覚悟や、婚姻や子育てにまつわる親戚と近所を繋ぐ「熨斗(のし)」の儀式として現れていました。
みんな町(ちょう)の子供として育てますばい
町内の子供は、誰であっても自分の子供と同じように接し育てていきます。案内状を持って回らせるのも、町内に子供の顔を知らせるという意味もありました。博多のオイシャンたちは、どこの子も、自分の子供と同じように、悪いことをすれば叱り、まっすぐ育つようにしっかりと見守る役目がありました。その視線のなかで、子供たちは自主的に年長者が若輩の面倒を見ていました。昔は子供組だけで、集めたお金を平等に分け合って助け合ったり、玉せせり行事などもありました。
山笠に出て「世間」をわきまえる
博多祇園山笠は、あれだけの規模の祭りでありながら、細かい規則などがありません。不思議なことです。誰かが命令することなどもなく、みんなが自主的に働いて山笠が動いているのです。その秘密は、町内で子供、若手、中年、年寄が一堂に会す直会(なおらい)のときにあります。そこでは博多のしきたりが年寄りから語られ、つき合いの智恵などが伝授されているのです。だから、山笠に出ることが即ち上下左右の人間関係、つまり「世間(せけん)」をわきまえることであるといいます。
町の恥にならんごとせな
小さな町内が集まって流(ながれ)になります。山笠や松囃子などは、流単位の祭礼ですが、各町内が責任を持って務めを果たします。当番の町内が翌年の受取町(うけとりちょう)に道具を渡すときなどは、現在でも厳粛な儀式が行われています。日常の近所のつき合いのありかたが博多の基本としてあり、そのうえにこのような町と町のつき合いがあるのです。
博多人が最も悪しき事とするものが「町(ちょう)の恥(はじ)」です。これだけは何があっても避けなければなりません。それは町内の全員に責任が及ぶことになるからです。儀式を定式化することで、それを防ぐ意味があるようです。
箱熨斗 |
タダ酒で酔うたぁ博多の者の面汚し
博多では、酒は娯楽のためだけのものではありません。正月には「末広(すえひろ)がり」という作法でお神酒(みき)をいただき家の繁栄を祈り、祭礼においても、何かあるたびに、町から町へ酒が贈答されます。酒の社会的意味を知っている博多人は、酔狂(すいきょう)をまわす醜態(しゅうたい)は決して晒(さら)しません。宴会でも「祝い目出た」が歌われた後は、誰も座りません。
しかしお堅いばかりではありません。招待した人にもっと酒を勧めたい場合、「立ちかわらけ」という博多独特の習慣もあります。立ったまま土器(かわらけ)で酒を勧めるのです。今でも披露宴出口で大杯が待っていることもあるようです。
笑いで剣呑(けんのん)な空気もさらりとかわす
博多人は、子供の頃から駄洒落(だじゃれ)や言葉遊びなどをして、笑いの訓練を積んでいきます。親が子供を諭(さと)すときも、まるで駄洒落のように言うのが常でした。閻魔様(えんまさま)のそばの婆さんの像にコンニャクが積んであるわけを「灰汁(あく)(悪)が多いからたい」などという具合でした。これが地口(じぐち)おちを特徴とする博多仁和加(にわか)に発展していきました。人間関係の雲行きが怪しくなったとき、言いにくいことも、機転を効かして笑にまぶして乗り切ります。遺恨を後に残さない博多の智恵です。
芸どころ博多たい
博多は芸どころと言われています。いつもは店先にいる人たちが、どんたくのときに嬉々として三味線を手に出ているのを見るとますますそう思えます。有名どころでは、古くは川上音二郎、最近では小松政夫さんたちがいます。芸事は博多人の嗜(たしな)みとされていました。新築や改築があると「屋固(やがた)め」と称して、近所の旦那衆が三味線、太鼓を手に集まり、素人義太夫(しろうとぎだゆう)大会で楽しんだといいます。芸は結集する力になると知っていたのでしょう。人つき合いの基本として、歌や踊りがあったのかもしれません。これも笑いと同じように、子供のころから訓練するのですが、芸妓さんのところに通いつめて習ったという強者(つわもの)もいます。
新しもん好きで義理堅か
博多の者は、新しもん好きと言われます。それは強い中央志向があったということでもあります。流行の最先端を走ることは、軽佻浮薄(けいちょうふはく)のように思えるでしょうが、そうではありません。都である東京の文化を実際に試すことで、それを商品として売れるか、どうかの判断をいち早く行うという意味もあったようです。一度は必ず体験しないと気がすまない派手な気性もあることも確かですが、普段の生活は、地味で手堅く、義理堅いものであったといわれます。
梨も柿も放生会
放生会(ほうじょうや)は博多の外にある筥崎宮の秋祭りです。放生会が始まると、博多では夏ものの衣類をすべて合物に替えるのが決まりでした。放生会と博多の暮らしのつながりは深く、この時期を生活の区切りにして、いろいろな決まりが習慣として生まれました。また、町内ぐるみで箱崎松原に繰り出す「幕だし」は、生活にメリハリをつけるための工夫でもあったようで、女性たちは「放生会着物(ほうじょうやぎもん)」を旦那衆に公然とねだることができました。
縁起ば担ぐと
つき合いは、人と人、町と町、それだけではありません。神様とのつき合い、つまり神事も博多人の日常です。博多には小さな祠(ほこら)がたくさんあり、神様への奉仕は数多くあるようです。かつては商家の庭や町内どこにでもあった稲荷の初午(はつうま)の祭りは、そこで奏でられた琵琶の音色として記憶されているようです。また、博多商人は、毎日の仕事では縁起を担(かつ)ぎました。身を清める海砂が入ったオシオイテボが玄関口に掛かっていると、家人は博多人だと分かったといいます。
(福間裕爾)