平成20年7月15日(火)~11月30日(日)
丸隈山古墳石室 |
JR筑肥線今宿駅から周船寺駅の南側にそびえる山を高祖山(たかすやま)といいます。この高祖山の山裾には大型の前方後円墳が多数あり、今宿古墳群と呼ばれています。
今宿古墳群の発見の歴史は古く、江戸時代に貝原益軒(かいばらえきけん)が著した『筑前国続風土記』に丸隈山(まるくまやま)古墳の発見話が記録されています。また、近年の発掘調査により、横穴式石室を日本で最初に墓室として導入した古墳群であることや、4世紀から6世紀にかけて前方後円墳が継続して築造されるという、全国的に見ても珍しい古墳群であることが分かり、2004年4月5日には、国指定史跡になりました。
また、高祖山北麓には前方後円墳だけではなく、小さな円墳が多数あったことが、福岡市教育委員会の調査により分かってきました。それによると古墳の総数は三百数十基に達し、古墳時代の高祖山は、いわば「墳墓の山」ともいえる景観だったのです。
1.いつの時代?どんな人? ~前方後円墳の発掘~
古代エジプトの墓と異なり、日本の古墳からは文字の書かれた遺物がほとんど出土しないため、古墳がいつつくられたもので、どんな名前・職業の人の墓であったかという基本的なことが分かりません。そのため、日本の考古学では古墳出土遺物のほか、石室の構造、墳丘の大きさや形・古墳の立地・日本書紀や風土記の記述などから、いわば複数の状況証拠を固めるようにして、古墳の時期と被葬者の謎について研究してきました。
古墳のうち前方後円墳とよばれる平面が鍵穴形をしている古墳は規模が大きく、副葬品も豊富なため、古墳時代の有力者の墓であると考えられています。今宿古墳群には11基の前方後円墳が存在しますが、このうち7つの前方後円墳から特に多くの副葬品が出土しています。
鋤崎古墳石室 |
今宿古墳群の前方後円墳出土遺物のうち特徴的なものとして、甲冑(かっちゅう)(てつのよろい)があります。展示した鋤崎(すきざき)古墳の長方板革綴短甲(ちょうほういたかわとじたんこう)のほか、若八幡宮(わかはちまんぐう)古墳からも方形板革綴短甲(ほうけいいたかわとじたんこう)が出土しています。若八幡宮古墳出土の短甲は全国的に見ても古い形の甲冑です。また兜塚(かぶとづか)古墳もその名が示す通り、江戸時代に発見されたときに甲冑が出土したとの伝承があり、現代の発掘調査でも甲冑とみられる破片が出土しています。甲冑が4~5世紀にかけて連続して出土する古墳群は全国的に見ても数例しかありません。また、丸隈山古墳の2面の鏡はどちらも日本で作られたとみられる製鏡ですが、大型の製鏡は沖ノ島祭祀遺跡を除くと北部九州ではほとんど出土していません。鋤崎古墳からも多量の鏡が出土していますが、三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)が含まれない鏡の組み合わせになっています。また鋤崎古墳の円筒埴輪や形象埴輪(家や武器の埴輪)は福岡県内では最も古い段階のもので、畿内の埴輪工人の間接的な関与がうかがえます。また鋤崎古墳の石室は、追葬が可能である横穴式石室としては全国でも最古の段階のもので、その祖型は百済(くだら)地域の漢江流域(現在の大韓民国ソウル市近辺)の石室と考えられています。
このように今宿古墳群でも若八幡宮古墳・鋤崎古墳・丸隈山古墳といった4世紀~5世紀前半までの前方後円墳は、日本列島・福岡県で最も「古い」「珍しい」遺物や遺構という事例が多くみられます。この時代までの今宿古墳群の被葬者は、畿内のヤマト政権と結びつきが強く、また、中国や朝鮮半島との交渉のパイプを持ち、最新の文化を積極的に受容できる立場にあったと推定されます。
しかし5世紀中頃以降、兜塚古墳とそれ以降の古墳は、前方後円墳ではあるものの、同時期の古墳に一般的に見られるような遺物・遺構の内容となっています。その変化には、「倭の五王」の時代におけるヤマト政権の変化や、筑紫君磐井(ちくしのきみいわい)にみられるように筑後地域の首長の力が強くなったことなどの、5世紀における列島規模での時代の変化が関係していると考えられます。ただ、前方後円墳が最上位の古墳の形であることは変わらないので、前方後円墳を築造し続けたということは、ある一定以上の地位を、今宿古墳群の被葬者たちが保っていたのでしょう。
そして前方後円墳は6世紀後半の飯氏(いいじ)B・14号墳を最後として、前方後円墳の築造が終了します。古墳への埋葬行為は、飯氏B・14号墳の最終埋葬にみられるように7世紀中頃~後半までは継続したようです。
2.どこに?どのくらい? ~GISでみえてきた墳墓の山~
古墳群の謎を解明するためには、大きな古墳を調査することも重要ですが、それだけでは足りません。古墳が全部で何基あって、それがどこに分布しているのかという基本的な情報を確定することが必要です。このような調査のことを分布調査といいます。
高祖山は木々に覆われているため、衛星写真から古墳を発見することはできません。そのため分布調査をするには山林に分け入って、人の脚で古墳を探す必要があります。円丘状の高まりや石材の破片などを元に、古墳と特定するのですが、ここで一つ問題が生じます。山中は市街地と異なり道路や建物などの目印がないため、発見した古墳を地図に記録することが難しいのです。そこで活躍するのがGPS(全地球測位システム)とGIS(地理情報システム)です。まず発見した古墳の上で人工衛星を利用したGPS機器を用い、古墳の緯度経度を確定します。そして緯度経度情報を元にコンピュータ上で地図や航空写真と合成します。このGISにより古墳群をあらゆる方向から眺めた三次元図を瞬時に作成できるなど、従来の紙面上の地図では実現不可能であった高度な利用が可能になってきています。
3.なぜ? ~今宿古墳群の特徴とその謎~
発掘調査と分布調査の成果により、今宿古墳群は東西3km、南北1.5kmの範囲に分布し、11基の前方後円墳と350基以上の円墳が良好に残っていること、古墳時代全時期を通じて同じ場所にずっと前方後円墳を造り続けるという全国的に見ても珍しい古墳群であること、日本で最も古い時期の横穴式石室をもつものや甲冑を保有するものがあり朝鮮半島や大陸の文化を先進的に受容していたこと、などが分かりました。
ただその一方、葬られた人の名前、生没年、ヤマト政権内において果たしていた役割などは不明のままですし、古墳の分布の中心が飯氏の丘陵部に移った理由、高祖山北麓に継続して古墳が形成された理由など、調査によって新たに生まれた「なぜ?」もあり、今宿古墳群にはまだまだたくさんの謎があります。今宿古墳群の謎を解くのはあなたかもしれません。
(赤坂亨)