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No.325

考古・民俗展示室

日明貿易と博多

平成20年8月26日(火)~11月16日(日)

青花 碗(博多遺跡群出土)
青花 碗(博多遺跡群出土)

日明貿易と博多
 日本と中国の王朝 明(1366~1644)との間でおこなわれた貿易を日明貿易といいますが、日明貿易は16世紀初頭を境に、前期と後期とに大きく分けられます。
 前期は、明の朝貢貿易以外の海外貿易と渡航を取り締まる海禁政策の下、おこなわれました。朝貢貿易は国の主権者が明国皇帝へ貢物をさし出す「朝貢」の形式をとった貿易のことをいい、日本からは1401(応永8)年~1549(天文18)年の約150年の間に19回派遣されました。1404(応永11・明 永楽2)年以後は、明から交付された勘合符を携帯する勘合船に限られ、勘合貿易とも称されています。1453(明 景泰4)年の第11回遣明船の4号船は、九州探題の命による聖福寺造営料唐船で、寺院造営の費用調達を目的として派遣された貿易船でした。1540(明 嘉靖19)年の第18回遣明船では、大内氏の命を受け聖福寺住持湖心碩鼎(こしんせきてい)が正使に任命されました。また、聖福寺・承天寺・妙楽寺など博多の禅宗寺院は、使節の宿舎として利用されました。
 後期、16世紀になると国家や守護大名など地域権力による通交関係は衰退し、民間人による中国海商主体の密貿易へと向いました。明では、国内の産業、貿易の活発化に伴い、密貿易が横行するようになりました。
 前期 元末から明初にかけて倭寇など海賊による中国沿岸部や朝鮮半島での略奪が相次ぎ、洪武帝は中国人の海外渡航を一切禁止する海禁政策をとり、一方で周辺諸国の国王に朝貢をよびかけるとともに、日本には倭寇の禁圧を要請しました。元末明初の倭寇は九州西北部・壱岐・対馬の日本人から主に構成され、前期倭寇といわれます。当時の日本は南北朝の争乱が未だ収まらず、明は大宰府にあった南朝の征西将軍懐良(かねよし)親王と交渉し、日本国王とみなしました。しかし、大宰府、博多は北朝の九州探題今川了俊によって制圧されており、双方への通商交渉は不調に終わりました。1392(明徳3)年の南北朝の合一後、室町幕府将軍足利義満は博多商人肥富(こいづみ)らの勧めもあり、1401(応永8)年、正使僧祖阿(そあ)・副使肥富らを明に派遣、義満は日本国王に封じられ、日明貿易の開始となります。
 15世紀中頃まで船数・人員に制限はなく、1453(明 景泰4)年の第11回の遣明船では船9隻・人員1200に上りました。日本側の進貢物に対する明側の回賜物、みかえりは非常に大きなものでした。しかし、15世紀後半以後、明は長城の築城など軍事費の増大などによって財政が厳しくなり、1467(応仁2)年の第12回の遣明船からは、船3隻、入京人員50人、十年に一度の渡航に制限されました。
 後期 15世紀後半以後は日本の幕府の権威が衰退し、守護大名細川氏と大内氏とが遣明船貿易の実権を争いました。経営は細川氏が新興の堺、西国に地盤をもつ大内氏は博多の商人の資本力に依拠していました。1523(大永3、明 嘉靖2)年、両氏は別個の遣明船団を編成し、受け入れ港の寧波(ニンポー)で到着手続きの先後を争い、武力衝突をおこしました(寧波の乱)。この事件以後、大内氏が日本における終わりの2回の勘合貿易を独占することになりますが、そのつど兵器帯用禁止など制限が厳しくなりました。厳しい統制の下での勘合貿易は敬遠されるようになり、一部の日本海商は盛んになりつつあった中国海商による密貿易に加わるようになりました。中国海商は海禁政策下に官憲の取り締まりに対抗すべく武装し、密貿易はますます盛んなものとなります。日本人も積極的に招き入れ、多国籍化した海商が凶暴化し台頭したのが後期倭寇です。明末の日本に関する研究書『籌海図編(ちゅうかいずへん)』には「倭好貨物」として、生糸・絹織物・綿布・陶磁器・銅銭・鉄鍋・水銀・針・薬材など、この時代の密貿易で取り扱われた品が載せられています。16世紀後半になると南海方面への貿易が公認され、部分的に海禁令が解除されますが、中国商人の日本への渡航と貿易は禁止されており、依然として密貿易の形をとっていました。明末の1614(慶長19、明 万暦42)年には60隻以上の明船の来航があったといわれ、以前にも増して活況を呈していました。


青磁花生・菊皿出土状況(博多遺跡群)
青磁花生・菊皿出土状況(博多遺跡群)
青磁香炉出土状況(博多遺跡群)
青磁香炉出土状況(博多遺跡群)

発掘調査が証す日明貿易
 明からの貿易で取り扱われた商品は文献史料で窺うことができますが、幕府や大内氏と密接な関係をもっていた禅宗寺院や商人が居住していた貿易の拠点「博多」における発掘調査ではどのようなものが出土しているでしょうか。高温多湿な日本では、地中で布や紙を材料とした製品はどうしても腐朽し易く、明渡来の品といえば金属製品や陶磁器に限られます。地中に埋もれた貿易品を見ていく場合、どうしてもそれらに主眼を置かざるをえません。
 陶磁器 日明貿易の時代に限らず、外交使節渡航記録の頻度と、貿易拠点とされる遺跡で出土した輸入陶磁器の量は比例するものではありません。
 博多では、幕府主体で遣明船を派遣した15世紀前半の中国陶磁の出土は多くありません。出土地も聖福寺付近に限られます。遣明船に関わった禅僧たちが、入手していたものでしょうか。日本より先に頻繁に朝貢貿易を行っていた琉球から転売され、入ってきたことも考えられるでしょう。琉球の対明朝貢貿易の最盛期は1383(明 洪武16)年から15世紀中頃までで、16世紀になると衰退しました。大内氏と密接な関係を示す土器が中国陶磁に伴って出土しています。
 遣明船に守護大名・寺社の船の加入が許されるようになる15世紀中頃から、主に青花を中心に中国陶磁の出土が多くなります。勘合船の形式を取る遣明船が派遣されなくなった16世紀後半以降には、さらに量産された粗製品を主として中国陶磁の出土が増加します。
 銅銭 日本では、中世に入ると中国から大量の銅銭が輸入され、通貨の他、国内では不足している銅製品の素材として用いられました。全国各地から備蓄銭など渡来銭が出土していますが、銭種の構成は北宋銭が圧倒的多数を占めています。中国では南宋以降は紙幣が多く流通し銅銭の生産が少なくなります。15世紀以降は、明銭の洪武通寶や永楽通寶が占める割合が次第に増加します。
 香料・薬材 香料や薬材そのものが出土することはほとんどありませんが、陶磁器や土製品にそれらをかたどったものがみられます。また、掌にのせられる大きさの青磁筒形三足香炉が、室町時代以降多く出土するようになります。香木の需要が増したことが想定されます。
 生糸・絹織物 繊維そのものが出土することはほとんどありませんが、生糸の荷に付けられた糸印と呼ばれる銅印が出土しています。

明代陶磁器受容の流れ
 明代前期、14世紀末から15世紀中頃にかけて日本にもたらされた陶磁器の出土は華南産の青磁と白磁が主体で、江西省景徳鎮産の青花は沖縄を除くときわめてわずかです。明代の陶磁器は、南は沖縄、北は北海道まで城郭や都市遺跡などで広範に出土しています。
 青磁碗は腰が張り、口縁部が直線にのびるものと端反りのものとがあります。外面の口縁部に雷文帯、体部には蓮弁文がヘラ彫りされているものがみられます。


青磁碗 電文帯に蓮弁ヘラ彫り(博多遺跡群)   墨書礫・銅銭の上に伏せられていた青磁碗   墨書礫・銅銭の上に伏せられていた青磁碗
青磁碗 電文帯に蓮弁ヘラ彫り(博多遺跡群)   墨書礫・銅銭の上に伏せられていた青磁碗
青磁皿 龍文ヘラ彫り(博多遺跡群)   青磁小碗 蓮弁ヘラ彫り(博多遺跡群)   青磁稜花皿(樋井川A遺跡)
青磁皿 龍文ヘラ彫り(博多遺跡群)   青磁小碗 蓮弁ヘラ彫り(博多遺跡群)   青磁稜花皿(樋井川A遺跡)

 白磁は小型の皿や杯が主体で、陶器質から磁器質まで焼成にムラがみられます。
日本では沖縄以外で出土例が少ない15世紀中頃以前の青花は、博多においては数例みられます。碗は端反りの口縁に、細く高い高台が削り出されています。体部外面に雲の上に楼閣を配した「雲堂手」風の風景、見込に捻花が描かれています。
 15世紀後半になると、青花は日本でまとまった量が出土するようになります。碗は腰が張らず、内底見込みがくぼんでいる「蓮子(レンツー)碗」、皿は端反り口縁の高台付皿、外底部中央を削りこんだ碁笥底の皿があります。青磁は細い蓮弁文が線彫りされた碗、腰折れの皿がみられます。青花では景徳鎮窯以外に福建・広東・雲南など華南産の粗製品が多く出土しています。また、青花と同じ器形の景徳鎮産の青磁・白磁皿もみられます。


白磁杯(博多遺跡群)   白磁八角杯(博多遺跡群)   青花碗 蓮子碗(那珂遺跡)
白磁杯(博多遺跡群)   白磁八角杯(博多遺跡群)    
青花皿 玉取り獅子(博多遺跡群)   青花皿 碁笥底皿(博多遺跡群)   青花皿 碁笥底皿(博多遺跡群)
青花皿 玉取り獅子(博多遺跡群)   青花碗 蓮子碗(那珂遺跡)   青花皿 碁笥底皿(博多遺跡群)

 16世紀中頃になると、青花では内底見込みの中央部が丸く隆起している「饅頭心(まんとうしん)碗」、外反せずに丸くおさまる高台付皿、鍔縁の皿などが新たに加わります。これらは類似した文様をもち、線描きの後その中を塗る「濃染(だみぞ)め」技法によっています。外底高台内には「天下太平」「長命富貴」などの銘款が記されています。一方、青磁の出土は少なくなります。
 この時期以降、同形の磁器の大量埋納がたびたびみられます。戦乱の最中、一時的に隠匿するために地中に埋めた、恒常的に地下蔵に収納していたといったことが想定されます。
 また、大型の中国製陶器甕を埋置した例もあります。当時は容器として国産の備前陶器が大量に広域流通しており、むしろ薬材などの内容物が商品としてもたらされたのでしょう。
 16世紀末の中国人による日本研究書『日本風土記』には、日本人が好むものとして絹織物・磁器・銅銭・鉄鍋・水銀・針・薬材などについて詳細に記述されています。
 磁器については、花形の器を選って用い、日本で多くの出土例がある竹節形香炉、菊皿、蓮弁碗が好まれたことが述べられています。
 16世紀末から17世紀初めにかけて、中国では明末にあたりますが、景徳鎮産の青花の他、日本で呉州(ごす)染付と呼ばれた青花、呉州赤絵と呼ばれた5彩など粗製の磁器が大量に輸入され、福建省しょう州(しょうしゅう)で生産した窯跡が発掘調査されています。


青花碗 饅頭心碗(博多遺跡群)   土壙内陶磁器出土状況(那珂遺跡)   陶器四耳壺(那珂遺跡)
青花碗 饅頭心碗(博多遺跡群)   土壙内陶磁器出土状況(那珂遺跡)   陶器四耳壺(那珂遺跡)
青磁香炉 竹節をかたどる(博多遺跡群)   青磁菊皿(博多遺跡群)   五彩碗(博多遺跡群)
青磁香炉 竹節をかたどる(博多遺跡群)   青磁菊皿(博多遺跡群)   五彩碗(博多遺跡群)

(佐藤一郎)

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