平成20年9月9日(火)~11月9日(日)
福岡市博物館では開館以来、仏教美術に関するさまざまな資料を収集してきました。なかでも、仏菩薩や密教の曼荼羅、高僧の姿、経典の内容などを描いた仏画は日本を含む東アジアの仏教圏で数多く制作され、多彩な内容をもっています。
仏画は単に仏尊の姿を描いただけの絵ではなく、そこには僧侶が祈りの場で用い、世俗の人々が心の平安を得るといった、切実な用途や目的が込められています。また、同じ題材でも国や地域、時代によって表現も大きく異なります。
本展示では、寄託品を含む館蔵の仏画を(1)「日本の仏画」、(2)「中国・朝鮮半島の仏画」の2つのコーナーに分けてご紹介します。それぞれの作品がもつ固有の美意識や、表現に込められた人々の想いに触れていただければ幸いです。
1 阿弥陀二十五菩薩来迎図 | 同 部分 |
(1)日本の仏画
1 阿弥陀二十五菩薩来迎図(あみだにじゅうごぼさつらいごうず)
一幅/絹本着色/102.1×53.4cm/鎌倉時代(13世紀)
雲に乗って現れた阿弥陀如来と25人の菩薩が描かれています。仏たちが向かう先は画面右下の小さな家のようです。家の中には白い着物を着た男性とその家族、僧侶が合掌し、彼らの前には観音菩薩が死者の魂を乗せる蓮台(れんだい)を捧げ持っています。
このような阿弥陀来迎図は、死後の極楽往生を願って平安時代後期から鎌倉時代にかけて盛んに制作されました。本図は作風から鎌倉時代中頃に制作されたとみられ、表現の点では家中にいる人物が、かなり具体的に描かれているのが注目されます。
本図は往生者として描かれた男性本人、またはその家族のために制作されたのかもしれません。
2 弁才天像 |
2 弁才天像(べんざいてんぞう)
一幅/絹本着色/89.5×38.8cm/南北朝時代(14世紀)
弁才天はインドのサラスバティ河が神格化された女神で、言葉や音楽などを司るとされ、学問・芸術あるいは財福の神として信仰されています。
本図には、滝が流れ落ちる深山幽谷で1人楽しげに琵琶を弾く弁才天が描かれています。空には月が懸かり、画面には不思議な静寂感が漂っています。彼女がいる場所は一体どこなのでしょうか。
実は同じような景色は中世に盛んに描かれた補陀落山(ふだらくせん)の観音菩薩像にも見られます。補陀落山は南方の海中にあるという観音菩薩の浄土で、そこにいる観音はくつろいだ姿で深山幽谷の岩上に腰掛ける姿であらわされます。おそらく本図は、こうした観音の姿を弁才天に置き換えたものでしょう。
ところで、山奥でくつろぐ観音や弁才天はどこか中国の仙人のイメージとも似ています。本図からは仙人の住む世界への憧(あこが)れも感じられます。
3 慈覚大師像 |
3 慈覚大師像(じかくだいしぞう)
一幅/絹本着色/87.5×39.2cm/室町時代(15世紀)
平安時代前期の天台僧、慈覚大師円仁(えんにん)(794~864)は、入唐(にっとう)して多くの経典をもたらし、帰国後は天台座主(てんだいざす)として布教に努め、宗派の発展に大きな足跡を残しました。
本図は牀座(しょうざ)の上で坐禅をする円仁の姿を描いたものですが、画面上部には延暦寺の護法神である日吉山王社(ひえさんのうしゃ)の本地仏(ほんじぶつ)があらわされています。こうした表現は肖像では珍しく、むしろ社寺の景観の中に本地仏を描く「宮曼荼羅(みやまんだら)」に類似しています。円仁の天台宗における功績を考えると、本図は円仁を延暦寺そのものに見立てた一種の宮曼荼羅といえるのかもしれません。
なお、本図の巻留には元治元年(1864)に比叡山西塔院の亮海が「不思議の因縁(いんねん)」によって感得(かんとく)し、所持していたことが記されています。
4 両界曼荼羅図(左:金剛界右:胎蔵界) |
4 両界曼荼羅図(りょうかいまんだらず)
二幅/長瀬主水筆/絹本着色/127.4×116.6cm/江戸時代(寛延2年=1749)/前原市・大悲王院寄託
両界曼荼羅は、「大日経(だいにちきょう)」などの密教経典の内容にもとづき、密教が説く悟りの意味を仏の姿であらわしたものです。求心的な構図の胎蔵界(たいぞうかい)と、9つの場面からなる金剛界(こんごうかい)とで一対をなし、そこには数多くの仏が鮮やかな色彩で緻密に描かれています。
本図は宝暦3年(1753)に福岡藩主が開いた大悲王院(だいひおういん)の什物で、表装の裏には寛延2年(1749)に「東寺請来絵本(とうじしょうらいえほん)」を長瀬主水(ながせもんど)という画工が写したと記されています。東寺(教王護国寺(きょうおうごこくじ))は京都にある弘法大師空海ゆかりの真言宗寺院で、空海が中国から請来したという曼荼羅の写しが数本伝来しています。本図はそうした正統な写本にもとづいて制作されたようです。
5 達磨図 |
5 達磨図(だるまず)
一幅/狩野安信筆/絹本墨画淡彩/51.7×75.6cm/江戸時代(17世紀)/福岡市西区・勝福寺寄託
禅宗の祖として仰がれる達磨は禅寺で好まれた画題ですが、本図ではなぜか山の彼方にぬっと姿を現した巨大な姿に描かれています。達磨が山を越えてこちらに向かってきそうなこの作品、実は鎌倉時代の有名な仏画「山越阿弥陀図(やまごしあみだず)」をもとにしています。
作者は狩野孝信(かのうたかのぶ)の子で江戸の中橋狩野家の祖狩野安信(かのうやすのぶ)(1613~85)です。彼は山越阿弥陀図が、やまと絵の作品であること踏まえ、絵の主題を狩野派の画風(漢画(かんが))に合う達磨に変えてみたのかもしれません。
山越阿弥陀図ならぬ山越達磨図。型にはまった感のある江戸時代の狩野派の作品の中にあって、本図の構想はなかなか洒落(しゃれ)が効いています。
6 涅槃図 | 同 部分 |
(2)中国・朝鮮半島の仏画
6 涅槃図(ねはんず)
一幅/孫億筆/絹本着色/92.4×43.7cm/中国・清時代(17世紀)
涅槃図は釈尊の入滅(にゅうめつ)(涅槃)を描いた仏画で、釈尊の命日にあたる2月15日の涅槃会(ねはんえ)で用いられます。
本図は数多く残る涅槃図の1例ですが、よく見ると釈尊の死を嘆き悲しむ仏弟子たちの中に日本の涅槃図では見慣れない道教の神々や、海中から姿をみせる龍王が描かれています。
本図は落款(らっかん)(サイン)から、中国清(しん)時代初期に福建地方で活動した画家孫億(そんおく)によって描かれたことがわかります。道教や海の神々は、おそらく孫億が活動した中国南方の人々の信仰を反映しているのでしょう。
本図は表装の裏に記された墨書から、もと薩摩(鹿児島)坊津(ぼうのつ)の興禅寺の什物であったことがわかります。坊津は中世以降、島津氏の中国・琉球交易の拠点となった港です。いっぽう孫億も福建と琉球の活発な交流を背景に、琉球絵画に大きな影響を与えたことで知られています。
こうした点を考えると、本図は琉球を介した島津氏の対外交流の中でもたらされたとも考えられます。
7 菩薩像 |
7 菩薩像(ぼさつぞう)
一幅/絹本着色/108.1×45.3cm/朝鮮半島・朝鮮時代(17世紀)
華やかな瓔珞(ようらく)を着け、宝座に左脚を踏み降ろして坐る菩薩像です。菩薩の名前はわかりませんが、画面上の短冊形に「菩薩 左第十四」と記すことから群像の一部として描かれたものかもしれません。
本図は菩薩の瓔珞を含む着衣の特徴や、額が角張り両目の間を広くとる顔立ちなどから、朝鮮時代(1392~1910)の作品と考えられます。
朝鮮半島では高麗時代(918~1392)に華麗な装飾性をもつ優れた仏画が多数制作されましたが、次の朝鮮時代には簡素な作風の仏画が多くなります。本図もそうした時期の特色を示していますが、構図や描線はしっかりとしており、彩色も淡い色調ながら細部まで丹念に施されています。簡潔な中にも熟達した筆致をみせる優品といえるでしょう。
8 阿弥陀三尊像 |
8 阿弥陀三尊像(あみださんそんぞう)
一幅/絹本着色/145.9×161.6cm/朝鮮半島・朝鮮時代(18世紀)
阿弥陀如来は観音菩薩と勢至菩薩(せいしぼさつ)を脇侍とするのが普通ですが、朝鮮半島では高麗(こうらい)時代以降、勢至の代わりに地蔵菩薩を脇侍とする阿弥陀三尊像がしばしば描かれました。それは地蔵が地獄に落ちた衆生を救う仏として特に人気を集めたからだと言われます。
本図もそうした作例のひとつで、画面向かって左に錫杖(しゃくじょう)を持ち片脚を踏み下げる地蔵が描かれます。後ろに立つ僧形の人物は仏弟子を代表する阿難(あなん)と迦葉(かしょう)でしょう。制作年代は、あまり細部描写にこだわらない単調な彩色から朝鮮時代の後半と考えられます。
なお、本図は画面下の銘文から、忠清北道にある俗離山(ソンニサン)(法住寺)獅子窟で、施主一家の極楽往生を願って制作されたことがわかります。
9 地蔵十王図 | 同 部分 |
9 地蔵十王図(じぞうじゅうおうず)
一幅/麻布着色/161.9×164.6cm/朝鮮半島・朝鮮時代(乾隆38年=1773)
地蔵菩薩を中心とする冥界の神々を描いた地蔵十王図は、地蔵菩薩への信仰の高まりとともに高麗時代の後半以降、数多く制作されました。
本図は画面下の銘文によって制作年が判明する作品で、地蔵の左右には「地獄の案内者」ともいうべき道明(どうみょう)和尚と無毒鬼王(むどくきおう)が立ち、これを亡者を裁く十王や冥官、牛馬の顔をした獄卒が取り巻いています。作風には高麗時代の仏画のような濃密さはありませんが、赤や緑を中心とした色彩の対比が美しく、人物の描写にも親しみやすさが加わっています。
なお、本図には画布に麻布が用いられていますが、この素材は朝鮮時代の仏画の特色のひとつです。こうした特徴は仏教の担い手が王室から庶民に移り、民間の工房で仏画が制作されたことと関係しています。
10 薬師如来および諸尊図 |
10 薬師如来(やくしにょらい)および諸尊図(しょそんず)
一面/麻布着色/144.3×205.3cm/朝鮮半島・朝鮮時代(乾隆47年=1782)
手に薬壺(やくこ)を持つ薬師如来を中心に日光(にっこう)・月光(がっこう)の両脇侍菩薩、そして7人の如来と7人の王、2人の僧形(そうぎょう)が描かれています。日本では見られない独特の尊像構成ですが、『七仏薬師経(しちぶつやくしきょう)』にもとづく七仏薬師と道教ゆかりの神々を組み合わせたものでしょうか。
作風は単純化された描写と鮮烈な色彩に特色があり、左右対称の構図とあいまって明快で力強い画面をつくりだしています。こうした表現は、朝鮮時代に重んじられた儒教的精神としての簡素さの現れかもしれません。
なお、本図はその大きさから、仏壇の後壁を飾っていた仏画と思われ、銘文から施主や制作年が分かります。
11 釈迦誕生図 | 同 部分/仙厓筆 |
11 釈迦誕生図(しゃかたんじょうず)
一幅/奥村玉蘭筆 仙厓義梵賛/絹本着色/181.4×116.7cm/江戸時代(文政1年=1828)
釈尊の誕生を描いた作品です。画面は下方の3段と上方の藍毘尼園(るんびにえん)および天空とに分けられ、物語は下2段の摩耶夫人(まやぶにん)が輿(こし)に乗り浄飯王(じょうぼんおう)の宮殿へ向かう場面から始まります。そして藍毘尼園では釈尊誕生の様子がさまざまな奇瑞とともに描かれ、上空にはこれを祝う神々の姿があります。
本図は上部に記された聖福寺の住職仙厓義梵(せんがいきぼん)(1750~1837)の賛によって、近世筑前の文人画家奥村玉蘭(おくむらぎょくらん)(1761~1828)が、本岳寺(福岡市博多区)に伝わる朝鮮仏画の名作「釈迦誕生図」に感銘を受け、模写したものとわかります。
玉蘭は一心不乱に制作に務めたようですが、制作途中で亡くなり作品はついに完成しませんでした。しかし本図は本岳寺本のような優れた仏画が、ときに国や時代を超えて人の心を捉える力をもつことを教えてくれます。
(末吉武史)