平成20年9月17日(水)~平成20年10月26日(日)
1 環濠をまたぐ土橋(板付遺跡、復元) |
2 鴻臚館出土の橋脚(8世紀後半~9世紀前半) |
福岡には古くからたくさんの橋がありました。弥生時代の板付遺跡(いたづけいせき)からは環濠(かんごう)に架かる土橋が見つかっています。ムラに入るための通路であったのでしょう。また、古代の外国使節をもてなした鴻臚館(こうろかん)では、近年、北館と南館をつなぐ木橋の橋脚が発見されています。江戸時代に入ると、博多の石堂橋(いしどうばし)(石堂川)、中洲に架かった東中島橋(なかしまばし)や西中島橋など、博多湾沿いの唐津街道(からつかいどう)にはたくさんの橋が造られました。これらの橋は、現在でも名前は継承されていますが、どんな橋であったのかはあまり知られていません。
この展覧会では、各時代を代表する福岡の橋をとりあげ、その架けられた時期、構造、性格などを探っていきます。
1 古代…環濠をまたぐ土橋(板付遺跡)、鴻臚館の橋、博多橋
考古の発掘成果や文献によって、古代の橋のいくつかを明らかにすることができます。弥生時代、板付遺跡(国史跡、博多区)の環濠に設けられ、ムラに入る通路になっていた土橋(ないし土橋状の道、写真1)は最も古い福岡の橋のひとつといえるでしょう。また、鴻臚館(国史跡、中央区)の北館と南館をつなぐ土橋、その後に架け替えられた木橋の橋脚(写真2)や柱跡が近年発掘され、古代日本の迎賓館(げいひんかん)の橋として注目されています。平安時代後期には、太宰府大山寺(だいせんじ)の僧高明によって造られたという「博多橋」が文献に見えますが、どこに、どんな橋を架けたのか不明です。
3 管弦橋(「筑前名所図会」) |
2 中世…長橋、通津橋、管弦橋
鎌倉時代末期、聖福寺(しょうふくじ)の住職によって作られた博多八景詩のひとつに「長橋春潮」があります。「長橋」は潮が満ち引きする所に架かった橋だったと考えられます。室町時代には「長橋観音」「長橋薬師」が文献に見え、長橋にあった観音や薬師は博多町人の信仰を集めていたものと思われます。また、聖福寺境内の風景を掲げた「十境」に「通津橋」があり、聖福寺の北側にあった蓮池(はすいけ)に架かる橋であったといわれています。さらに、住吉神が博多の下照姫神社(しもてるひめじんじゃ)(吉祥天(きっしょうてん)<女>社)に渡御(とぎょ)する時、橋の上で音楽を奏したという「管弦橋(かんげんばし)」(写真3)もありました。
3 近世…多々良川の橋、石堂橋、東・西中島橋、飛び石橋
豊臣秀吉によって、朝鮮出兵の軍用道路として「箱崎の前の橋」や「多々良川の橋」を架けることが試みられ、それは後に唐津街道として整備されていきました。江戸時代前期の唐津街道(からつかいどう)を描いた「道程図(どうていず)」には、多々良浜(たたらはま)・室見川(むろみがわ)・十郎川(じゅうろうがわ)のように橋のない川、つまり徒歩で渡りをする川が記されています。また、板橋は石堂橋(いしどうばし)(石堂川)と東・西の中島橋(なかしまばし)(那珂川、写真4)だけでした。江戸時代後期の「筑前名所図会(ちくぜんめいしょずえ)」では、金屑川(かなくずがわ)(早良区)には浅瀬に平たい石を置いただけの飛び石橋(写真5)が描かれていました。江戸時代、川には必ず橋が架かっていたとはいえないようです。
4 江戸時代の東・西の中島橋(「福岡図巻」) | 5 飛び石橋(「筑前名所図会」) |
6 近代的な名島橋(昭和8<1933>年完成) |
4 近・現代…名島橋、志賀島橋/荒津大橋など
近代的な橋のはじまりは、鉄やコンクリートの橋の出現だといわれています。これまでの板橋を改修して、昭和8(1933)年に完成した名島橋(なじまばし)(多々良川、選奨土木遺産、写真6)は、鉄筋コンクリート製で、ヨーロッパ風のアーチ橋として現在でもその重厚な姿を見ることができます。また、昭和5(1930)年にはじめて架けられた志賀島と海の中道をつなぐ志賀島橋(しかのしまばし)は、コンクリート製の海をまたぐ橋でした。現代を代表する福岡の橋は、都市高速道路の荒津大橋(あらつおおはし)(中央区)、歩行者専用で憩いの場になっている「福博であい橋」(薬院新川(やくいんしんかわ))や「ふれあい橋」(樋井川(ひいがわ))でしょうか。
(林 文理)