平成21年3月17日(火)~5月10日(日)
図1 安楽平城趾遠景 |
図3 「安楽平城絵図」(部分)(史料4) |
8回目となる「戦国時代(せんごくじだい)の博多展(はかたてん)」。今回は福岡市早良区(さわら)の安楽平城(あらひらじょう)を紹介します。
市民の憩い(いこい)の森・油山(あぶらやま)から西に派生した荒平山(あらひらやま:福岡市早良区重留(しげとめ)・東入部(ひがしいるべ)・脇山(わきやま)、標高394.9m)には、今からおよそ550年前に築かれた山城跡(やまじろあと)があります。室町時代(むろまちじだい)から戦国(せんごく)時代にかけて、大内(おおうち)氏や大友(おおども)氏が早良郡を治めるため、軍事的な拠点として活用した安楽平城です。
一 中世の山城「安楽平城」
安楽平城は荒平山の頂上一帯に築かれた山城です。荒平山を遠くから眺めると山頂が平らになっていることが分かります(図1・3)。これは山頂を人工的に削り平らな面を造成したためです。江戸(えど)時代の初めに築かれた福岡城(ふくおかじょう)などと異なり、巨大な石を高く積み上げた石垣(いしがき)はありません。土塁(どるい)と堀切(ほりきり:尾根(おね)を切断する空堀(からぼり))を活用した城です。山頂から四方に延びる尾根上には、敵の侵入を防ぐため堀切が設けられています。
図2 安楽平城本丸跡採集熨斗瓦(史料1) |
二 大内氏時代の安楽平城
安楽平城がいつ築かれたのか、築城について記した記録はありません。安楽平城に関する最古の記録は、寛正(かんしょう)6年(1465)の古文書(『児玉採集文書(こだまおさむさいしゅうもんじょ)』一「諸氏古文書(しょしこもんじょ)」所収、寛正6年12月19日付大内氏奉行人連署奉書写(ぶぎょうにんれんしょほうしょうつし))です。大内氏は家臣の飯田幸松丸(いいだこうまつまろ)に対し、山門庄(やまとのしょう:現福岡市西区下山門(しもやまと)・上山門(かみやまと)・拾六町(じゅうろくちょう))のうち10町(約10ヘクタール)を城料所(じょうりょうしょ:城に勤番する経費を捻出(ねんしゅつ)する土地)として与え、「安楽平城衆(じょうしゅう)」として在城(ざいじょう)するよう命じています。このような城衆が、城を預かる城督(じょうとく)に従って城の守りにつきました。大内氏の筑前守護(ちくぜんしゅご)としての活動は、文安(ぶんあん)5年(1448)より確認できますので、これ以降、寛正6年までの間に安楽平城は築かれたことになります。
図4 大村重継書状案(史料6) |
図5 重満・永任・護則連署定書(史料7) |
大内氏は、早良郡を治めるため、早良郡代を派遣しました。おおむね早良郡代はこの安楽平城に在城し、安楽平城督を兼ねています。早良郡代=安楽平城督は、郡内の行政・裁判・軍事を司(つかさど)りました。歴代の安楽平城督として、石津外記允(いしづげきのじょう)・遠田兼常(とおだかねつね)・神代武総(こうじろたけふさ)・大村重継(おおむらしげつぐ:図4)・大村興景(おきかげ)がいました。近隣の村々は城普請(しろふしん)等の夫役(ぶやく)を課せられました(図5)。
三 大友氏時代の安楽平城
安楽平城は、大内氏が滅んだ後、1550年代半ば頃より大友氏の城となりました。大友氏は家臣の小田部(こたべ)氏を安楽平城督に任命し、安楽平城周辺を治めさせました。大友氏時代の城督は、小田部民部入道宗雲(みんぶにゅうどうそううん)、小田部鎮元(しげもと:民部入道紹叱(じょうしつ))、小田部統房(むねふさ)の三代が務めました。小田部氏のもと、鬼倉(おにくら)・庄崎(しょうざき)・中牟田(なかむた)・土生(はぶ)・前川(まえかわ)氏等、近隣の諸侍(さむらい)が城衆として従いました。
四 安楽平城陥落
天正(てんしょう)6年(1578)末、大友氏が日向(ひゅうが:現宮崎(みやざき)県)において島津(しまづ)氏に大敗したことを切っ掛けに、各地で戦乱がおこり、大友氏の領国(りょうごく)は崩壊(ほうかい)の危機(きき)に瀕(ひん)します。天正7年(1579)9月、安楽平城は肥前国(ひぜんのくに:現佐賀(さが)県)の龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)の軍勢に攻められ、城督小田部紹叱(鎮元)と嫡子(ちゃくし)九郎(くろう)が戦死します。後を継いだ次男の統房が防戦を続けますが(図6)、翌8年(1580)7月7日、ついに安楽平城は落城しました。
図6 大友義統感状(史料19) |
本展では、古文書等を通して、安楽平城をめぐる攻防の歴史を紹介します。
(堀本一繁)