平成21年4月21日(火)~6月21日(日)
食料の不足
陶器の鏡餅 |
昭和15(1940)年、米をできるだけ節約して食べようという「節米」運動がはじまりました。当時の日本人の米消費量は、平均一日約三合だったといいます。現在と比べるとかなり多いですが、これは副食の量が少なく、必要なエネルギーと栄養素のほとんどを主食の米から摂る食生活だったからです。明治以降、国内の米生産量は増大しましたが、消費量も増えたため、需要をまかなうために消費量の約二割を輸入していました。昭和14年に朝鮮半島の稲作が大凶作であったことも影響し、また、戦争中は輸送も軍事優先になり、外地からの米の輸送も平時のようにはいかなくなるため、「節米」運動が展開したのです。「節米」法としては、(1)イモ類や豆類を米に混ぜて炊く、(2)パンや麺類を主食にする、(3)イモ、カボチャ、穀類などの満腹感のある副食を献立に加える、という方法が推奨されました。
昭和14年からは白米の販売が規制され、昭和16年からは米穀の配給通帳制がはじまりました。この時、大人一人当たりの配給量は、当時の平均消費量より二割以上少ない一日二合三勺でした。砂糖や醤油といった調味料も配給制になり、肉・魚や野菜も不足し、空き地で野菜をつくることや、ウサギの飼育などが奨励されました。
戦況が厳しくなり、食料不足が深刻になってくると、少ない食料の嵩(かさ)を増やす方法や、あまり食用にはしてこなかったモノを食料として調理する方法が、紹介されるようになりました。一升の醤油を二升に増やすことのできる調味料が発売されたり、食べられる野草の特集が雑誌に掲載されました。
エネルギー不足
昭和16(1941)年8月に、アメリカは対日石油輸出を全面禁止にしました。石油をほぼ輸入にたよっている日本は、たちまち深刻なエネルギー不足に直面します。戦争中は平時に比べ多くのエネルギーが必要になります。飛行機も軍艦も石油を必要とし、軍需物資をつくる工場を稼働させるためには電気が必要です。
家庭での省エネが呼びかけられ、木炭バスが町を走るようになりました。電気アイロンが陶器になり、さらに、湯を入れて使うタイプの代用品になっていきました。
なにもかもが不足
単色刷のたばこパッケージ 不足して単色刷になりました |
戦争中に不足していたのは、金属や食料、燃料ばかりではありません。昭和17(1942)年には衣料品が点数切符制になりました。背広50点、ワンピース15点などと購入に必要な点数が決まっていて割当点数でやりくりし、点数と現金と商品入荷がなければ品物が手に入らない仕組みです。
インクや紙も供給不足になり、国が発行する印刷物も頁数が減り、印刷の質も低下しました。雑誌は、個人購読ではなく、近所で回覧することが勧められるようになりました。印刷を簡素化するために、たばこのパッケージや郵便切手のデザインも単純なものになっていきました。
また、冠婚葬祭も含め、「合理的」に「簡素」に生活することが呼びかけられました。
(太田暁子)