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No.340

黒田記念室

博多祇園山笠展15

平成21年5月12日(火)~7月26日(日)

6 博多祇園山笠(安宅臣義功)
6 博多祇園山笠(安宅臣義功)

はじめに
博多に夏の訪れを告げる櫛田神社(くしだじんじゃ)(福岡市博多区)の祭礼、博多祇園山笠(ぎおんやまかさ)。毎年、7月1日から15日の期間中には、きらびやかな飾(かざ)り山(やま)が博多・福岡の街を彩り、舁(か)き山(やま)が町を勇壮に駈け抜けます。
当館では、開館以来ほぼ毎年、山笠を紹介する展覧会「博多祇園山笠展」を開催してきました。2年ぶり15回目となる今回は、江戸時代に立てられた山笠の標題(ひょうだい)(飾りのテーマ)に着目し、山笠を製作する際に描かれた博多祇園山笠図を中心に、往時の山笠の姿を紹介したいと思います。

標題を決める
江戸時代、櫛田神社に奉納された山笠は、現在の飾り山と同じような背の高い山笠でした。しかし、明治時代に入ると電信や電灯の電線が架設され、明治43(1910)年春に路面電車が開通したため、奉納するために背を低くした舁き山と、動かさない飾り山を分けて立てるようになりました。
現在の飾り山は、表(おもて)と見送(みおく)り(背面)それぞれ異なる標題の飾りが施されていますが、江戸時代の山笠は、現在の舁き山と同じく標題はひとつでした。山崎藤四郎(やまさきとうしろう)が著した『追懐松山遺事(ついかいしょうざんいじ)』(明治43年)によれば、山笠の標題は、当番町が前年もしくは前々年から町中で寄り合って何度も話し合いを重ねて決めていたと言います。
標題を選定する際には決まり事もありました。宝永(ほうえい)5(1708)年、福岡藩の命により、一、三、五番山は合戦物を主題とした「修羅(しゅら)」、二、四、六番山は女性が登場する物語などをテーマにした優美な「かずら」とすることが決められました。「修羅」は「さし山」、「かずら」は「堂山(どうやま)」とも言い、「さし山」は矢切(やぎり)と呼ばれる山笠の上部に城郭などの飾りを据(す)え、「櫛田宮」「祇園宮」「大神宮」と書かれた神額(しんがく)や鶴亀などの飾りを掲げた一間程度の竿を立て、「堂山」は同じ箇所にお堂や館(やかた)などの飾りを施しました。
標題が決まると、山笠の設計図となる絵図が作成されました。この絵図は、藩の許可を得るためにも必要でした。当番町は、まず下絵図を作り町奉行所に提出、許可が下りると本絵図を二点作成し、藩と年行司(ねんぎょうじ)に献上しました。本展覧会で展示する山笠図の多くは、この過程で作られたものと考えられます。
江戸時代後期、山笠図の作成に携わっていたのが三笘(みとま)家の人々です。初代三笘主清(しゅせい)は安永(あんえい)年間(1772~80)以降、山笠の製作を一手に担っていた人物。その一方で、福岡藩御用絵師上田佐吉(うえださきち)門下の町絵師でもあり、当番町の依頼によって山笠図も作成していました。初代主清の後も三笘家の当主は、二代主清、三代英之(えいし)、四代主清と山笠図の制作に携わります。特に三代英之と四代主清の作品が多く残され、藩主黒田家に伝わった山笠図に彼らの名が見られます。


26 博多祇園山笠(良将登庸初)
26 博多祇園山笠(良将登庸初)

日本の故事を標題に
現在の山笠の標題は、源氏物語(げんじものがたり)などの文学作品や歌舞伎、能などの名場面だけでなく、テレビドラマや人気アニメのキャラクターも題材として取り上げられています。では、江戸時代の山笠は、何を標題の題材としていたのでしょうか。「松囃子(まつばやし)・山笠記録(やまかさきろく)」(櫛田神社蔵)には、寛文(かんぶん)九(1669)年以降の山笠の番付が記載されており、当時の山笠の標題と施されていた飾りを知ることが出来ます。これによると江戸時代初期の標題は、『古事記(こじき)』や『日本書紀(にほんしょき)』、『平家物語(へいけものがたり)』をはじめとする軍記物など、日本の故事を題材としたものが多く見受けられます。人気のある題材は、たびたび標題として取り上げられました。しかし、宝永五年に藩命によって奇数番が「修羅」、偶数番が「かずら」と決められると、女性が登場する題材も次第に増えていきました。

中国の故事を標題に
江戸時代後期になると日本だけではなく、中国の故事を題材とする標題も多く見受けられるようになります。なかでも多く取り上げられたのは、中国・前漢(ぜんかん)時代の歴史家司馬遷(しばせん)が著した中国の歴史書『史記(しき)』と、三国(さんごく)時代の正史である『三国志(さんごくし)』です。ともに江戸時代には既に刊本が普及しており、『史記評林(しきひょうりん)』などの『史記』の注釈書、『三国志演義(さんごくしえんぎ)』や『通俗三国志(つうぞくさんごくし)』など『三国志』をもとにした小説も普及しており、それぞれの名場面が山笠の標題として、たびたび使われました。

豊臣秀吉を標題に
山笠の標題として、たびたび取り上げられる人物として豊臣秀吉(とよとみひでよし)がいます。秀吉は、天正(てんしょう)14(1586)~15年にかけて軍勢を九州に派遣し、自らも同15年3月に九州に赴き、島津(しまづ)氏を攻略、5月には九州を平定しました。この戦乱の下、博多の町は荒廃し、町衆の多くも町を離れていました。このような状況下、秀吉は博多復興のために、天正15年正月には、避難していた住民に博多へ戻るよう命じ、同6月には「太閤町割(たいこうまちわり)」と呼ばれる新たな町割(町の区割り)を行いました。これにより内陸部と沿岸部の息浜(おきのはま)の両地域に分かれていた、中世以来の博多の町の姿は一変し、近世都市博多へと変貌をとげていきます。
このため、江戸時代、博多の町の人々は、戦乱で荒廃した町を復興させた豊臣秀吉を特別な存在としてみていました。『太閤記(たいこうき)』や『絵本太閤記(えほんたいこうき)』などの刊本の普及も背景にあったと思われますが、博多の人々にとって特別な存在であったため、たびたび山笠の標題になったと思われます。

高山英朗

※会期中、資料保護のため一部展示替えをいたします。

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9時30分〜17時30分
(入館は17時まで)
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休館日
毎週月曜日
(月曜が祝休日にあたる場合は翌平日)
※2024年8月12日~15日は開館し、8月16日に休館
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