平成21年11月17日(火)~平成22年1月11日(月・祝)
図版① 1.深井 |
江戸時代、能楽は、将軍の即位、世継ぎの誕生や結婚といった当時の一大セレモニーの際に演じられる式楽であり、また、貴人の御成(おなり)や大名家同士のもてなしの中でも欠かせないアトラクションでした。上演に際して用いられる面(おもて)、装束、楽器などは、専業の能役者の家のみならず、能を催す側でも相当数をそなえるべき道具だったので、江戸時代には膨大な数の能面や能装束が、将軍家や各大名家の注文により制作されていました。能面のこうした需要に応えていたのは、代々、能面制作を家業としていた面打(めんうち)たちでした(能面は、世阿弥以来、現在に至るまで「彫る」とは言わず「打つ」と言います)。この展示では、所蔵の能面を通して、江戸時代の面打たちの活躍を紹介します。
図版② 1.深井(部分) |
図版③ 1.深井(部分) |
◆墨書のある能面
図版①は、表面の彩色がすっかり落ちてしまった面です。もとは、顔色白く、額に黒髪のかかる、やや年長けた美しい女面でした。この面の額の両側には、墨書があります。左部分には、「武州江戸ニテ/正保四年八月吉日」(図版②)、右には「井関河内大掾 源家重作」(図版③)と書いてあります。つまり、この能面は、作者がノミで形をすっかりととのえたあと、筆をとって彩色を施す前に、木地(きじ)の上に、自らの名と、制作地(=江戸)、制作の日時(=正保(しょうほう)4年/1647/8月)を書き付けておいたものなのです。さて、この井関河内大掾源家重(いせきかわちだいじょうみなもとのいえしげ)という人は、どのような人なのでしょうか。
江戸時代の面打を考えるうえで、現在まで重要視されているものに、能役者の喜多(きた)流九代目の大夫・古能(ふるよし)という人が、寛政(かんせい)9年(1797)にあらわした『仮面譜』という史料があります。それによれば、家重は、近江(現在の滋賀県)にいた井関上総介親信(かずさのすけちかのぶ)を初代とする世襲面打の四代目であり、「古今比類なき上作」であるとされています。家重の時代、面打の仕事は、それまでにない新しい形式の能面を創出するより、観世(かんぜ)家など役者のもとに伝来する由緒ある古面の写しを作ることが、メインになっていました。家重は、彼独自の工夫をこらした彩色により、古面の古びた感じもそっくりそのまま再現してしまうため、若い頃につくったものは、古面にまぎれてしまったと言われています。弟子には、大宮真盛(おおみやさねもり)という人がいました。
さて、『仮面譜』には、こまったことに、この家重が、正保2年に没したと書かれています。では、最初に見た能面の「正保四年」は、どうなってしまうのか…。じつは、ここ20年来の研究で、家重はもっと長生きだったことが分かっています。その有力な証拠が、彩色の下や面の裏に残された銘文です。「家重が江戸にて慶安4年(1651)につくった」「家重が京都にて慶安5年(1652)につくった」といった内容の銘がある能面が知られるようになり、また、位牌や過去帳の存在も確かめられて、最近は、井関家重は、明暦(めいれき)3年(1657)、おそらく77歳まで生きていたと考えられるようになっています。