平成21年12月1日(火)~平成22年2月21日(日)
人面をもつ銅戈の茎(白塔遺跡出土) |
一 はじめに
発掘によって見つかる遺跡の中には、人々が住んだ住居・集落や人々を埋葬した墓地、あるいは水田や畑など具体的な生活の痕跡を残す遺跡のほかに、目的がわからない溝や柱の跡、何に使ったのかわからない不思議な形をした遺物が出土することがあります。また土器や石器に文様や絵が描かれているものもしばしば出土します。多くの場合、このような遺跡は「祭祀(さいし)」に関連するものと考えられています。
古代中国では、すでに殷周時代には祭祀用の青銅器が製作され、当時の文献にも祭祀の次第が細かく記載されていて、当時の祭祀の様子を知る上で非常に有用です。一方、同じ時代の日本では文字記録がなく、どのような祭祀が行われていたのか推定するのは非常に難しくなっています。このような弥生時代以前の「祀(まつ)り」は、「祀りのあと」に残された断片的な資料から推測するしかありません。
今回の展示では、主に弥生時代の祭祀を取り上げます。この時代は縄文時代から続いた祭祀形態に代わり新しく農耕祭祀が開始された時代です。また青銅器などの新たな素材を使用した祭器が作られるようになり、大きな転換期となった時期でもあります。祀りに使用した青銅器や土器から、弥生時代の祀りを、そして祀りを執り行う主体だった弥生社会について考えていくことにしましょう。
二 祀りの場
溝に投げ込まれた祭祀土器(那珂遺跡群) |
弥生時代の祀りを執り行った場所である「祭場(さいじょう)」と断定された場所はこれまでわずかしか確認されていません。というのは、弥生時代の祭祀の場所はその後に痕跡を残さないものが多いからです。臨時の祭場は恒久的な構築物がなく、祭祀が終わって仮設物や祭祀道具などが片付けられると、その場には祭祀を示すものはなくなってしまいます。
そこで間接的な方法ですが、祭祀の場を作るために使用された舞台装置的な遺物を検討することで、祭祀の場の光景を想像してみたいと思います。
福岡市西区の元岡(もとおか)・桑原(くわばら)遺跡群42次調査では大量の木製品が見つかっています。その中に、「鳥形木製品(とりがたもくせいひん)」があります。鳥形木製品は韓国から東日本まで広く分布している木製品で、農耕儀礼に関するものとか集落の境界を守るものといわれています。その使用目的については諸説ありますが、長い棒の先に付けて立てられたものであることは確かなようです。鳥形木製品には様々な形があり、写実的に鳥をかたどった物から、板に簡単な細工をした程度の物まで、全国に様々な形の鳥形木製品が分布しています。これらは祭祀の時に祭場に立てられていた可能性もあり、祭場の雰囲気を作っていた舞台装置の一つと言え、まさに「神を招く鳥」と言えるでしょう。
このほかに祀りの場に用意されたものとして多量の祭祀用の土器が挙げられます。これらの土器は細かい粘土を使用した、薄くて特別な形をしており、赤い彩色を施されたものもあります。祭祀の場で土器が据えられて使用されていたことは、祭祀の舞台となった祭場の周囲や井戸の中から多量の土器が出土することからわかります。祭祀の時に土器を投棄(とうき)する習慣は弥生時代中期後半から始まり、溝の中に繰り返し土器を投げ込んだ状況が発掘によってわかります。
また弥生時代の後期になってから井戸を囲む形での祭祀が盛んになると、井戸の底に完全な形の土器がかたまって出土することがあります。これは井戸に土器を捨てたものではなく、井戸を取り囲んで祭祀を行い、儀式の過程で土器を井戸に供えたものであろうと考えられます。福岡市の比恵(ひえ)・那珂(なか)遺跡は全国的にみても弥生時代後期の井戸が集中している遺跡で、独自の祭祀が盛んだったとも言えるでしょう。