平成22年1月5日(火)~平成22年2月14日(日)
金属に細工(さいく)をする職人を「金工(きんこう)」という。なかでも後藤家は足利(あしかが)氏、織田(おだ)氏、豊臣(とよとみ)氏、徳川(とくがわ)氏といった権力者と結びつき、赤銅などのよい地金(じがね)と金銀銅などの金属を豊富に用いて伝統的な作風を継承し、始祖から十七代まで、室町(むろまち)時代後期から明治維新(めいじいしん)の廃刀令(はいとうれい)まで装剣金具(そうけんかなぐ)金工の中枢として活躍した。さらに後藤家は天正大判(てんしょうおおばん)などの金貨も鋳造。天正16(1588)年につくられた大判には「後藤」と花押(かおう)が墨書(ぼくしょ)され、五代目徳乗(とくじょう)のころには桐紋(きりもん)の極印(きわめいん)を打つようになる。また同じく徳乗のころから、経済的に全国を支配するために欠かせない、重量によって金銀貨の値を決めるための精度が高い分銅(ふんどう)制作を一手に引き受けることになった。
もともと後藤家は美濃(みの)(岐阜(ぎふ))守護(しゅご)の土岐(とき)氏に代々仕え、祐乗(ゆうじょう)の父は春日野(かすがの)城主であったが土岐氏の世継ぎ争いに巻き込まれ、地位を追われて京都に移住したという。始祖祐乗(1440~1511)は東山文化を築いた室町幕府八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)に近侍し、その非凡な才能を義政に認められて、それまで将軍家に伝来していた秘伝の彫金術を継承することになった。祐乗は従来の彫法を集大成し、家彫(いえぼり)という格調ある後藤家様式を確立し一家をなした。作品は主に小柄(こづか)・笄(こうがい)・目貫(めぬき)の三所物(みところもの)だが有銘(ゆうめい)のものはない、すべて後世の鑑定による。
始祖祐乗作 唐獅子図目貫 |
二代宗乗作 龍図目貫 |
三代乗真作 龍図目貫 |