平成22年8月17日(火)~10月24日(日)
七五三のお祝い |
はじめに
終戦の混乱から這い出したばかりの昭和30年前後のフクオカ。
人びとは、みな必死にたくましく輝いていました。
当時の人びとの毎日は、どんなだったのでしょう……?
それは、今から50年ほど前のこと、あなたは何を思いうかべるでしょう。
意外に深い、フクオカをのぞいてみましょう。
今回の展覧会では、碧眼(福岡に駐留した2人の米兵)が撮ったフクオカ、つまり鮮明なカラーで当時の人びとの姿を探ってみたいと思います。
終戦直後のフクオカ
国際法上では、昭和27年(1952)のサンフランシスコ講和条約の発効により、正式に日本と連合国との間の「戦争状態」は、終結したものとされました。つまり、ポツダム宣言の受諾を表明した昭和20年(1945)8月14日以降も戦争状態は継続していたものとして扱われていたのです。
フクオカ地区もわが国における主要な進駐地であったため、市民も1952年の同講和条約の発効まで、占領下の統制生活を余儀なくされました。
昭和20年9月30日、フクオカ地区占領のため、連合国軍の第一陣が香椎操車場に到着。フクオカ地区に進駐した連合国軍は約4500人と推定され、軍司令部は東公園の旧一方亭に、九州軍政部とMP本部は天神の千代田ビルにおかれました。
また、大濠の簡易保険支局(現簡易保険事務センター)は、連合国の病院として接収されました。
昭和30年(1955)頃の日本
昭和20年代後半の家庭電化といえば、ラジオやトースター、アイロン、扇風機が中心。それが、同30年(1955)には、「神武景気」の波に乗り、電気洗濯機が急速に普及し始めます。さらに、登場した家電製品の月賦販売が庶民の購買意欲を刺激して、同32、33年頃の空前の家電ブームへとつながっていきます。
中でも人気は、洗濯機、白黒テレビ、冷蔵庫に集まりました。この3製品は、「3種の神器」と呼ばれました。「日本間・畳」という日本的な居住様式から、「リビングルーム・絨毯」などの欧米風の生活様式へと変わってゆく象徴でもあったのです。
どの家庭でもたいてい「洗濯機→テレビ→冷蔵庫」の順だったようです。主婦にとって、体力的にも時間的にも最も負担が大きいのは洗濯だったからです。
昭和33年(1958)には自動電気炊飯器がブームを呼び、掃除機やステレオなども登場しました。この後も「3種の神器」は次々と入れ代わり、昭和40年代に入ると、クーラー、カラーテレビ、カーからなる「3cブーム」が到来することになります。
西大橋を渡る親子(昭和28年(1953)撮影) |
1 フクオカの街中
昭和20年代後半になると、呉服町交差点に博多大丸(1953)、那珂川河畔に福岡日活ホテル(1954)、天神に西日本ビル(1954)ができるなど、フクオカの街にも高層ビルが建ちはじめました。
昭和30年代になると、天神交差点に天神ビル(1960)、福岡ビル(1961)が建ち、その眺めは一変しました。
こうしたフクオカの都市化のなかで、フクオカの人びとはどうだったのでしょうか。たとえば、日本人の服装はというと、昭和30年頃にはフクオカでも洋装化が進んでいたことがわかります。こうした日本人の洋装化は、戦後混乱期にアメリカの援助物資として洋服が大量に流入したことによるものだといわれています。
2人の米兵が撮った、昭和30年前後のフクオカの人びとをご覧ください。