平成23年6月21日(火)~平成23年8月14日(日)
No.7 竹山之図 |
はじめに
最近、江戸時代はエコな時代だったと評価する動きが盛んになってきています。限られた資源を有効にリサイクルしながら循環型の社会を実現していたというのがその大きな理由です。果たして本当にそうだったのでしょうか?今回の展示では、江戸時代の人々と山林との関係を素材に、この問題について考えてみたいと思います。
1、山林資源とくらし
かつて私たちの生活は山林に支えられていました。衣食住について見てみると、まず、衣服についてはそのほとんどが木綿と麻で出来ていたわけですが、それらを加工する織機などの材料は山林から得られました。「食」については、実際に食料を山林から得るのは勿論ですが、それ以上に食を得るための様々な材料を山林に依存していたと言えます。具体的には、肥料や農地を耕作する牛馬の餌となる秣(まぐさ)、その牛馬が使う木製の農具、また、農業用水についても豊かな山林が天然のダムとなってこそ得られるものです。さらに、農作物等を運搬するための籠、調理するための燃料となる薪や炭、お椀や箸といった食器、全てが山林資源により賄われていました。「住」についても、現在のように鉄筋コンクリートのマンションがあるわけではないので、住居の大半は木と紙と茅(かや)といった材料で出来ていました。江戸時代の物流を担っていた船についてもほぼ全てが木製です。福岡藩の山林経営について記した「山林古老伝(さんりんころうでん)」【№2】の著者が「百物百器山林の徳ならずや」と表現するように、山林資源が無いと生活が成り立たない、これが江戸時代以前の山林と人々との関係でした。
No.5 形相図 |
2、描かれた江戸時代の山林
それでは、当時の人々はどのような山林に囲まれて生活していたのでしょうか?残された絵図から、江戸時代の山林の状況を確認してみましょう。
まず、江戸時代初めの福岡城下を描いた「慶長御城廻御普請絵図(けいちょうおしろまわりごふしんえず)」【№3】を見てみます。城下町の東西に広大な松原が広がっているのが分かります。この松原は「黒田家譜(くろだかふ)」【№4】に、慶長15(1610)年頃に、福岡藩初代藩主黒田長政(くろだながまさ)が家臣の竹森清左衛門(たけのもりせいざえもん)に命じて、町人らを使って植えさせた松原である、とあります。江戸時代中期の城下周辺を描いた「形相図(ぎょそうず)」【№5】や「福岡図巻(ふくおかずかん)」【№6】にもこの東西の松原が描かれています。
これらの図を見る限りでは、当時の人々は豊かな緑に囲まれた生活を送っていたように思えます。しかし、明暦(めいれき)年間(1655~8)に行われた山林調査図である「竹山之図(たけやまのず)」【№7】を見るとまた違った側面が浮かび上がります。この図は、領内の山林の景観を植生に注目して描いたもので、当時の山林の状況が具体的に分かります。上の写真は平尾(ひらお)村(現福岡市博多区東平尾)の「もんのうら」という山の様子を描いたものです。他の山と違い、何も山肌に植物が描かれていません。山の上部に「竹植所千五百坪」とあることから、この山は利用し尽くされて「はげ山」になっていて、竹を植える予定であることが分かります。この他にも山林が失われている山々は多数描かれており、当時の山林利用が木々の成長を追い越すスピードで進んでいたことを物語っています。こうしてみると、緑が守られている場所がある一方、荒れ果てた山も存在していたという状況が見えてきます。