平成23年7月26日(火)~ 9月19日(月・祝)
唐津街道を行く
斉溥をはじめとする一行は、9月22日に福岡城を出発、箱崎御茶屋(はこざきおちゃや)(藩主の別館、福岡市東区)に立ち寄ったのち唐津街道を進んで、初日は赤間(あかま)(宗像市)に宿泊。翌日は木屋瀬(こやのせ)、黒崎(くろさき)(以上、北九州市八幡西区)を経て豊前国(ぶぜんのくに)に入り、小倉(こくら)城下(同市小倉北区)に立ち寄ったのち大里(だいり)(同市門司区)まで進みました。
江戸時代前・中期の参勤交代では、藩主一行は福岡城下で乗船、海路で長門国赤間関(あかまがせき)(山口県下関市)まで行きました。しかし、船を利用した場合、旅程が天候に左右されることや財政負担が大きいことなどから、次第に陸路を利用する距離が増え、江戸時代後期には福岡から大里まで陸路を行くようになりました。
中国路を行く
9月24日、斉溥一行は大里から乗船し、赤間関に渡ります。以降、赤間関から大坂まで15泊16日の日程で中国路(ちゅうごくじ)を進んで行くことになります。
江戸時代中期頃までは領内と同様に赤間関・大坂間も海路を利用していましたが、天候や財政的理由により次第に陸路を利用する距離が延び、江戸時代後期には全行程陸路となっていました。
10月7日、一行は黒田家ゆかりの地である播磨国姫路(はりまのくにひめじ)に止宿、翌日には御着(ごちゃく)(以上、兵庫県姫路市)で休息を取りました。この際、斉溥は御着にある初代藩主黒田長政(ながまさ)の曾祖父重隆(しげたか)と祖母の墓所を参拝し、長政の祖父職隆(もとたか)の墓所には代参(だいさん)を派遣しました。このように江戸時代後期には参勤交代の際に藩主が先祖の墓所を参拝することが慣例となっていました。
10月8日、一行は大坂に到着。中之島(なかのしま)(大阪市北区)にあった蔵屋敷に入った斉溥は、蔵元をはじめとする多くの大坂商人たちと面会し挨拶を受けました。大坂では斉溥と主立った家臣は蔵屋敷に滞在、それ以外の家臣は周辺の宿屋に別れて宿泊しました。
13 中国路絵図(姫路付近) |
東海道を行く
大坂に1日滞在した一行は、10月10日に大坂を出発。以降、13泊14日の日程で東海道(とうかいどう)を進んで江戸ヘ向かいました。
参勤交代の途中、一行は街道筋諸藩や幕府領の城下町や本陣などで休泊しました。その際、各地の大名や代官などから挨拶や贈り物を受け、これに対し福岡藩主も返礼として贈り物をしました。これら道中における交際上の経費は多額を要したため、江戸時代後期には、より費用がかからない中山道(なかせんどう)を利用し、街道筋の大名・代官らに贈答の辞退をする場合もありました。
さて、斉溥一行は道中何事もなく日程通りに旅路を進めました。10月22日には小田原に到着、出迎えに来た江戸留守居役(るすいやく)の守田矢平太(もりたやへいた)と合流し、同25日江戸に到着しました。桜田(さくらだ)の上屋敷(東京都千代田区霞が関)に入った斉溥は、前藩主黒田斉清(なりきよ)と対面、江戸詰家臣の挨拶を受け、約半年におよぶ江戸での生活をスタートさせました。(髙山英朗)