平成23年8月2日(火)~ 9月19日(月・祝)
図3.富岡謙藏『古鏡の研究』所収 奈良県新山古墳出土三角縁仏獣鏡拓本 |
第3章 ガンダーラからの電話 ―古鏡に東西文明の接触をみる―
(大正8年・中山48歳)
中山博士は大正8年10月に自らの古鏡研究に対する強烈な批判の手紙を受け取ります(写真4)。差出人は当時26歳の梅原末治(うめはらすえじ)です。なぜこのような批判を受けるに至ったのでしょうか。
梅原末治は後に京都帝国大学文学部教授となり東アジアの青銅器研究の第一人者として日本の考古学界を牽引していく人物ですが、この当時は京都帝国大学文科大学で教務嘱託をしつつ富岡謙藏に師事し彼の古鏡研究を学んでいました。
富岡謙藏は梅原に命じて須玖岡本遺跡の発掘を計画し、中山博士もこの計画に助力していました。しかしこの計画は富岡謙藏が大正7年12月23日に亡くなったことにより頓挫します。富岡の死後梅原は、富岡家に住み込み遺稿をまとめることに奔走していました。
富岡を失ったことで古鏡研究は一時沈滞しますが、大正8年8月に高橋健自(たかはしけんじ)によって発表された新説が波紋を起こします。それは鏡の銘文に「王氏作」「新作」とある鏡は王莽期のものであり、この銘文を含む三角縁神獣鏡があることから、三角縁神獣鏡の一部が王莽期の製作であるとするものです。富岡謙藏の提唱以後、三角縁神獣鏡は魏(ぎ)(西暦220~265年)鏡であることが定説となっていて、高橋は各方面から大きな批判を受けます。この論争は後に「王莽鏡論争」と呼ばれます。そして高橋説の賛同者の1人が中山博士でした。
中山博士は前漢鏡では幾何学的・平面的だった鏡からなぜ三角縁神獣鏡(さんかくぶちしんじゅうきょう)のような立体的な紋様表現が誕生するのかについて関心を抱いていました。
高橋説によれば、三角縁神獣鏡は紀元後1世紀初めには誕生していたことになります。そして丁度この頃中国に伝来したのが仏教です。中国で最初期に仏教を信仰した人物として楚王英(西暦?~71年)がいます。中山博士はこの楚王英の封ぜられた楚国と徐州が近く三角縁神獣鏡には「新作…銅出徐州」という銘文があること、三角縁神獣鏡の紋様としてガンダーラ式の仏像が彫りこまれていること、仏像は紀元前1世紀頃ガンダーラで始めて誕生したとする説が提唱されていたことなどから、ガンダーラの仏像が、誕生後すぐ仏教とともに前漢末~王莽期の中国に伝来し、ガンダーラ美術が中国の芸術に影響を与えた結果、三角縁神獣鏡など立体的な造形表現が取り入れられた鏡が誕生したと考えました。
この着想を得た時の状況を中山博士は「支那鏡の沿革を考えつつあった際、脳底の受話器に何処からとも無く是等(これら)の疑問に関する通話が懸かって来た。」と書き記しています。
しかし高橋説は銘文の一部のみを取り上げたものであり、他の遺物との比較検証がないなど論拠が乏しく、梅原にとっては受け入れられないものでした。その高橋説を元にした論文を発表した中山博士に対しても批判の手紙を書くに至ったのでしょう。梅原の背景にあったのは豊富な中国古典や古代中国の各種遺物に関する知識をもち、さらに千数百面も中国古鏡を観察したうえで構想された富岡謙藏の学問姿勢への信頼です。大正という時代にあって20歳近くも年長の中山博士に批判文を差出した事実に、亡き師である富岡の学問を自分が守り継承していくのだという梅原の強い意志が感じられます。
中山博士は梅原の批判に際してもその見解を変えることはありませんでしたが、関心が古鏡の実年代から考古学資料からみた東西文明の接触へと移ったこともあったためか、大正10年を境に古鏡に関する論文発表を中止します。
王莽鏡論争は高橋健自本人からの反論がなかったこともあり、うやむやな形のまま終わります。その後高橋説の追随者はなく、高橋説は否定されていきます。
中山博士の古鏡研究は梅原が批判したように、骨董的な収集品のそれも真偽の定かでない拓本を資料として用いていることや、同時代の古鏡以外の遺物について考慮していないこと、紋様は単純から複雑へと変化するという図式を基本とし、複雑から単純への変化をあまり考慮していないなど、問題点も含まれています。また、鏡の紋様に東西両文明の接触をみるという着想も、中国大陸で学術的発掘が行われていないこの時代には検証の不可能なことでした。こうした諸問題と古鏡論文発表の中止もあり、大正時代の中山博士の古鏡研究は次第に忘れられていきます。
しかし、中山博士の着想には先見性があり、中国大陸でも学術的発掘の進んだ近年になってようやくその視点からの研究がなされたものもあります。例えば、三角縁神獣鏡の仏像にガンダーラ美術の影響をみたのは中山博士が最初であり、現在でも三角縁仏獣鏡(さんかくぶちぶつじゅうきょう)は中国における仏像の起源を考える重要な資料となっています。