平成23年9月13日(火)~ 11月6日(日)
石組井戸(田村遺跡) |
国内の発掘調査では地上に築かれた構築物はほとんど見つかることはありません。市内の発掘現場で目にするのも地面に掘られた大小の穴。例外は古墳くらいです。そんな穴を、形・出土遺物などから住居跡・墓・貯蔵穴・柱穴などと性格付けをしています。しかし何のために掘られたのかはっきりしない穴が多いのも事実です。今回はそんな穴(遺構(いこう))の中から、性格が比較的わかりやすい「井戸」を取り上げます。
では、どんな遺構を井戸と呼べるのでしょうか。井戸は今も昔も水を得るための施設です。地下水が出る深さまで掘られている必要があります。また掘った穴が壊れないように、水が濁らないように、井戸側(いどがわ)などの施設を設置していれば井戸と言うことができるでしょう。
しかし、井戸側がある遺構でも発掘時には水が湧かず、使われた当時とは地下水位が変わったと考えられる例などがあります。井戸側がないと井戸かどうか迷うこともあります。
そんな井戸の発掘は、狭く深く、しかも水が湧いてくるため、他の遺構の発掘と比べて時間と労力がかかります。掘り始めには多少の覚悟が必要ですが、他の遺構にはない発見があり楽しみな遺構でもあります。
井戸の出現
井戸の歴史は古く、中国では約6000年前の河姆渡(かぼと)遺跡の例などが知られています。日本では弥生時代前期末頃に出現し、佐賀・筑後平野の低地遺跡で朝鮮半島の無文土器を模した土器と一緒に出土することから、半島からもたらされた技術の一つではないかと考えられています。ただし、その後すぐには広まらず、数が増えてくるのは弥生時代中期の後半になってからです。多くの集落では、それまでどおりに河川や湧き水、雨水などから水を得ていたと考えられます。
素掘り井戸土層断面(板付遺跡) |
木組み・曲物井戸(立花寺B遺跡) |
結い桶井戸(香椎B遺跡) |
井戸の種類と移り変わり
遺跡で出土する井戸は、地上の井桁(いげた)が残ることがないため、地下に築かれた井戸側などに特徴が現れます。まず市内で見られる井戸側を時代順にたどってみましょう。
弥生時代の井戸は、ほとんどが井戸側などの施設を持たない素掘(すぼ)りの井戸です。直径1mから1.5mほどの円形の穴で、深さ2、3mから、なかには5mにおよぶものがあります。円形に掘ることは強度的にも理に適(かな)ったものと言えますが、発掘していて深くなると身動きがとれません。なかには大型甕棺の破片を敷いたり立てかけた例があり、井戸側等の施設があった可能性もあります。素掘り井戸は次の古墳時代でも主体を占め、以降の時代も作られ続けます。
井戸側で最も多く使われる素材は木です。木などの有機質は腐食して通常失われていますが、井戸の底などのように水気のある環境では残ることがあります。市内では古墳時代から大木を刳(く)り抜いた材や板で井戸側を作った例があります。
奈良時代になると方形に木を組んだ井戸側を持つものが増えてきます。横板を積み上げたものや、四隅の柱に横木をわたし、幅の狭い板で横または縦に囲ったものなど、多様な構造を見ることができます。その底をさらに掘り込み水溜として曲物(まげもの)を設置したものもこの頃から見られます。
12世紀になると、新たに結(ゆ)い桶(おけ)を重ねた井戸側が出現します。結い桶は鴻臚館に変わって貿易の拠点となった博多に、宋の商人がもたらしたものと考えられます。以後、博多を中心とした地域では井戸側として一般的になりますが、全国的に広がるのは15世紀以降です。
今日でも城跡などで見ることができる石組み井戸は12世紀頃から築かれています。ただし、博多遺跡群などの砂丘上の遺跡では15世紀頃からで、立地によって違いがあるようです。また実際には数種類の井戸側を組み合わせて使うこともしばしばです。そして江戸時代には、専用に焼かれた瓦を円形に組んだ井戸側が多く見られるようになり、近年まで使用されました。