平成23年9月21日(水)~ 11月6日(日)
原田嘉平「月琴」 |
晩年の小島与一(右)と原田嘉平(左) |
3、人柄と作風
小島と原田は普段は仲が良く、ライバルとして互いをどれだけ意識していたかは実のところわかりません。しかしそれぞれの人柄や制作態度はまったく対照的であったようです。
小島は弟子を数多く育て、仕事も早かったといいます。また若い頃から歌舞伎を好み、「勧進帳(かんじんちょう)」をはじめとする《歌舞伎もの》は与一人形の代名詞にもなりました。私生活でも「与一払(よいちばら)い」と呼ばれた浪費癖や遊興癖など破天荒で豪快なエピソードに富み、その天真爛漫な人柄は多くの人々に愛されました。なかでも小島のイメージを決定づけたのは最初の妻ひろ子とのラブロマンスでした。小島は博多の芸妓(げいこ)であったひろ子を見初め、やがて駆け落ち事件を起こした末に結ばれたと伝えられています。こうした波瀾万丈の恋物語は小島をモデルにした火野葦平(ひのあしへい)の小説「馬賊芸者(ばぞくげいしゃ)」(昭和28年)によって広く知られるようになり、他にも演劇やテレビドラマにも取りあげられています。大正3年の「初袷(はつあわせ)」は結婚前のひろ子をモデルにして作った作品で、若き日の小島の一途な恋心を窺わせる名作といえるでしょう。
いっぽう、原田には小島のような派手なエピソードは少なく、謙虚にこつこつと努力を重ね、周囲の勧めにもかかわらず、生前ついに個展を開かなかったといいます。「仕事が仕事ば教ゆる」が口癖であったように、常に自己と向き合う制作態度に徹し、最後まで職人としての矜持(きょうじ)を貫いた人でした。福岡県無形文化財の認定を巡っても、小島が優れた作品を残すことに重きを置いたのに対し、原田は人形制作に関わる仕事の全般を保存すべきだという独自の見解を述べています。
なお、小島と原田は博多の夏祭り「山笠」の飾り山作りでも長く腕を競った間柄でした。小島は弟子が原田と同じものを作っているのを見ると直ちに作り直させたといいます(西頭哲三郎(にしとうてつさぶろう)氏談)。原田が昭和39年に高さを調節できる山を制作し、明治以来途絶えていた「走る飾り山」の復活に大きく貢献したことも特筆されます。
小島は84歳、原田は88歳で亡くなるまで、飽くことなく人形制作を続けました。小島が育てた多くの弟子やその孫弟子たちは博多人形をさらに発展させ、今日も新たな挑戦を続けています。いっぽう、原田は後継者こそ少なかったものの孤高の名作を数多く残しました。晩年の作品「月琴(げっきん)」はスラリとした長身に怜悧(れいり)な表情が映える《美人もの》で、余計なものをそぎ落とした枯れた美しさが漂います。
小島と原田は同じ道を歩み、互いに競い合いながらそれぞれの生きた証を残したといえるでしょう。
(末吉武史)