平成24年8月7日(火) ~10月14日(日)
3.成功と失敗
井上が活躍した明治期には全国各地で官公庁主催の博覧会や共進会が盛んに開催されていました。こうした博覧会等への出品は、博多人形の名声を高め売り上げに繋がることから、井上も積極的に参加し、海外の博覧会も含めて数多くの賞を獲得しています。
ところで明治43年(1910)に福岡で開催された九州沖縄八県連合共進会は「自分ガ一代ノ商運ヲ此ノ一挙ニ決セント猛烈ナル奮闘ノ準備を試ミタリ」と述べているように、井上にとっては大きな意味をもつ催しであったようです。井上はこの共進会用に「三角ボックス井上パック」と名付けた土産物の滑稽人形を大量に作り、特別にしつらえた会場内のブースで販売します。しかし蓋を開けてみるとまったく売れ行きが振るわず、井上は在庫の山と借金をかかえてしまいました。井上はこのとき出資者に対して申し訳がたたず、一時は人形制作を辞めようとも考えたようですが、出資者の励ましもあり「再ビ人形界ニ、スツロングファイター、タランコトヲ誓ヒタリ」として再起を誓っています。
4.井上式地歴標本
失意の底から蘇った井上は一念発起して上京し、福岡出身の政治家金子堅太郎(かねこけんたろう)を訪ね、東京帝国大学教授で人類学者の坪井正五郎(つぼいしょうごろう)を紹介してもらいます。このとき井上は坪井から世界の人種や考古遺物の標本などを作ることを提案され、直ちに坪井の指導を受けながら標本を試作しました。
これを機に井上は井上式地歴標本製作所を立ち上げ、坪井のほか国文学の関根正直(せきねまさなお)ら25人の学者の監修を得て大々的に教材としての人形を売り出します。その題材は世界の人種や風俗のほか日本の時代装束、武具甲冑(かっちゅう)、髪型、国宝仏像、さらには伊達政宗(だてまさむね)や黒田長政(くろだながまさ)といった各地方の英雄にも及び、しかも各標本には
坪井らの学術的な解説書が付けられていました。またその販売にあたっては、写真カタログによる通信販売という当時としては斬新な手法が用いられました。こうして井上式地歴標本はベストセラーとなり、全国の学校や図書館で教材として用いられ、井上と博多人形の名は一躍全国に知られるようになりました。
本展示で紹介する作品も旧福岡中央高等女学校で社会科の教材として用いられていたもので、ほかにも同様の資料が岡山の金光(こんこう)図書館や東京大学などに残っています。
5.井上の理念
井上は人形師であると同時に有能な経営者でもありました。「必ズ品物ト共ニ満足ト快感ヲ売レ」、「東京の商売ハ先(ま)ヅ場所ガ第一」、「廉(やす)イモノヨリモ良イ物ヲ売ル事」といった言葉は彼の一面をよく物語っています。しかしこうした経営哲学の根底に流れていたものは、徹底して業界のために尽くすという奉仕の精神であったようです。それは井上の「清助ハ人形ニ生キ人形ニ死スルモノナリ博多人形ノ為ニ犠牲トナツテ奮闘スルコトハ清助一代ノ使命ナリ」という言葉によくあらわれています。今日の博多人形を築いた一人として井上の果たした役割は決して小さくなかったと言えるでしょう。
(末吉武史)
博多人形井上清助奮闘五十年史 | 井上式地歴標本(世界人類風俗人形・日本髪容の標本) |