平成25年6月11日(火) ~8月18日(日)
「愛国行進曲」をうたうこどもたち 『写真週報』創刊号 (内閣情報局編輯、昭和13年) |
昭和20(1945)年6月19日深夜から翌日未明にかけて、アメリカ軍の長距離爆撃機B‐29の大編隊から投下された焼夷弾(しょういだん)により、福岡市の中心部は焼け野原になりました。特に、博多部は甚大な被害をうけました。福岡市博物館では、平成3年から6月19日前後に企画展示「戦争とわたしたちのくらし」を開催し、戦時期におけるひとびとのくらしのあり方を、さまざまな観点から紹介してきました。
22回目となる今回は、昭和の戦時の娯楽のうち、主として昭和10年代の音楽・映画・紙芝居などに関する資料を展示します。大正時代から昭和時代はじめに一般化したこれらの娯楽は、聴覚、視覚により聴衆に訴えかける特徴があります。国家は、この特徴を利用し、検閲を介して娯楽に国家の政策や国民へのメッセージを伝える役割をになわせました。
インターネットやスマートフォンの登場によって、現代の娯楽はますます多様化しています。戦時の娯楽にふれることで、戦時の生活を考えていただくきっかけになれば幸いです。
戦時の音楽
大正時代から、ひとびとは多くの音楽にふれるようになります。大正時代の終わりから昭和時代のはじめには、「カチューシャの唄(うた)」、「東京行進曲」などがヒットしました。これらの楽曲は当時行歌(りゅうこうか)とよばれていました。
昭和12(1937)年以降に本格化したのが、「国民歌(こくみんか)」の制作です。流行歌にかわる「公的流行歌」として構想され、誰もが共感できる歌詞、曲が模索されました。「国民歌」は、時局の影響を受けたものであり、士気向上や動員など戦時意識の植え付け、国家政策の宣伝の役割を持っていました。
「愛国行進曲」は「国民歌」の代表作のひとつです。昭和12(1937)年、内閣情報部は、新しい「国民歌」をつくるため、作詞・作曲を公募しました。作詞に50,757編、作曲には9,955編の応募があり、翌年に各レコード会社から発売された「愛国行進曲」は、発売枚数100万枚ともいわれました。
「国民歌」が多くの国民に受け入れられるには、ラジオ放送の役割も重要でした。
昭和11(1936)年、日本放送協会は、「国民歌謡(こくみんかよう)」というラジオ番組を開始します。「国民歌謡」は、同じ楽曲を毎日5分間、一週間にわたり放送する、反復と継続を特徴とした番組で、戦争の進行に伴い、徐々に国民歌を多く選曲するようになりました。また、番組で流した楽曲の楽譜を発行しました。ラジオ放送は、国民が国民歌を「聞いたことがある」レベルから、「歌うことができる」レベルまでひきあげる仕組みをもっていたのです。