平成28年4月12日(火)~平成28年6月5日(日)
黒田一成(睡鷗)と家臣たち
(四)刀剣にみる初代と二代
現在、三奈木黒田氏の資料のなかで残された刀剣は、一成の所用した無銘(むめい)の刀で、「肥後延寿(ひごえんじゅ)」として伝わっています。延寿派は中世から続く現在の熊本菊池地方(くまもときくちちほう)の刀工で、細身(ほそみ)で上品な作りとして知られています。しかし一成の「延寿」には、峰(みね)の部分に打疵(うちきず)が三カ所もあり、実際に合戦で陣刀(じんとう)として使用されたことがわかります。また長さも70センチ以上あり、江戸時代の普通の武士の持つものより長いものです。
一方、一任の差料(さしりょう)は、無銘の「大和(やまと)志津(しず)」で、大和系を学び美濃(みの)(現岐阜(ぎふ)県)の刀工となった志津一派の作として伝来したものです。太平(たいへい)の世となり、一任が家老を勤めた三代藩主光之(みつゆき)の時代に、藩主から拝領したとされ、長さは標準的な69センチほどですが、鋭利(えいり)な感じの刀です。
このほか鎗では、枇杷(びわ)の葉のような形をしたものや、江戸時代中期の筑前の名工・信国(のぶくに)重宗(しげむね)の作などが残されています。
(五)戦陣(せんじん)の備え
三奈木黒田氏には、戦陣の道具として、武将の身近な軍配(ぐんぱい)、床几(しょうぎ)、といったものから、陣中鍋(じんちゅうなべ)、陣鐘(じんしょう)、旗といった陣中の用具や装備が残されています。当時から伝わったものばかりではなく、後の時代にゆかりの伝来品として入手されたものもありますが、三奈木黒田氏は、福岡藩の筆頭(ひっとう)の家老として、藩内で最大の軍勢を持つ軍団、当時のことばで「備(そなえ)」をうけ持ち、先陣(せんじん)をまかされたり、近世中期以後では長崎(ながさき)警備(けいび)や、幕末・維新期の出兵など、藩主代理などを勤(つと)める必要があり、同家の戦陣の用具はその軍事的な役割を常に忘れずに保存されていたものと言えましょう。
(六)家の守り神として
寛永(かんえい)20年(1643)、一成は隠居して睡鷗(すいおう)と号し、花鳥風月(かちょうふうげつ)に親しみ明暦(めいれき)2年(1656)に死去するまで86歳の長寿を保ちました。一成の最後の姿は殉死(じゅんし)した家臣とともに肖像画として残されています。一任も藩政の重鎮(じゅうちん)となり、その後の難しい藩政の中でも生き残り、福岡藩で唯一、万石以上の領地をもち、当主は必ず家老の最上席に就任することとなりました。そして江戸時代も後半の19世紀前半、三奈木黒田氏は福岡藩の創成期を支えた黒田二十四騎の一人として、特に一成の武功が、家宝により伝えられていくことになりました。
(又野誠)